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誰が評者を評するのか ブルーアーカイブ『白亜の予告状 虚飾の館と美学の在り処』感想記事

 まだ5月なのに暑いよ~ 暑くて干からびそう……

 白亜の予告状……その……良かったね。良い……。言いたいこと色々あるけどなんかこれで感想記事終わっても良い気がしてきた。でもなんかしら書いておかないと自分の中で深掘りできないので書きながら考えをまとめておきます。
 あんまりおれは頭が良くないので芸術や文化的な切り口で語れないのですが、ぼちぼちやっていきます。

 例によりネタバレタグを付けておくのでたぶんヘッダーにも注意書きが出ると思いますが、本記事は白亜の予告状の盛大なネタバレがありますので未読の方は自衛をお願いいたします。

ゲーム開発部がクリエイターとしてメチャメチャ進歩している

 まずこのイベントの主役といえばゲーム開発部の面々です。いや、素晴らしい。クリエイターとしてものすごく前に進んでいる……。
 間違えて引き受けてしまった仕事を、(先生の助力もあるとはいえ)なんとか投げ出さずにこなしきろうとする姿勢が人間的に非常に成長してますね。モモイがしくじって言い出せなかったことを全力でカバーしようとみんなで協力するチームワーク……ミドリが冷静に落ち着かせ、アリスがチームの士気を高め、人見知りのユズが部長として表に出てきたことも成長を感じさせます。


 ゲーム開発部の成長が特に実感できるのは、取材を通して資料を集めようと考えるようになってきているところですね。ミドリも以前からゲームイラストレーターの展示会を見に行ったりしているのですが、フィールドワークで物事を体験して製作に活かそうという観察眼が花開き始めている。
 これは別に「インドア派は健康に悪いから外に出ろ」とか古臭い意味で言っているわけではなくて、これは宮崎駿おじいちゃんとか富野由悠季おじちゃんとかも言ってることなんですが、「物語を見て物語を作るのは危ない」ということなんですね。

 かつて世に送り出して酷評されてしまったテイルズ・サガ・クロニクルをアリスは愛のある良いゲームと評していますが、それは横で助言してくれるモモイとミドリたち製作者の愛情を加味して言っているので、実際のところアリス自身も途中で「殺してくれ」と懇願するほどの苦行ではありました。
 あのゲームがなぜクs……問題のあるゲームだったかというと、既存のゲームの逆張りをし続けることだけを「独自性」だと考えているからです。決定ボタンとキャンセルボタンにトラップを仕込むなどUIも悪辣……。ゲームを愛してはいるかもしれないけど、すでにある名作に対抗意識を燃やして囚われているせいでこれから遊び始めるプレイヤーのことをちっとも考えていない。「あのシリーズではお約束だったから」なんて言われても遊ぶ人からすれば「知ったこっちゃないわ」という話で、既存の文脈に寄りかかりすぎるとその文脈を知らない人に伝わりづらい。同じく王道を歩んではいないゲームであってもMOONやUndertaleやThe Stanley Parableが面白いのは、奇をてらいつつもやることを分かるように指示していたり遊ぶ人のスタイルを受容する懐があったからです。
 そのうえ、物語というものは話を円滑に進めるために細かいウソをついていたりするので、物語を参考にしすぎるとそのウソを「本当にそういうものなんだ」と信じ込んで採用してしまう。逆張りするにせよ王道をなぞるにせよ、架空だけを参考にして架空を作り出そうとするなら相当うまくやらん限り無理が出るということです。たとえばいっつもシリーズファンから「無可動実銃とか見なよ」と言われてんのにエアガンを見ながら銃のモデリングをするから部品の形状でバレ……やめよう!危ないゾーンに入ってきた!やめようこの話!!

 ……なんかゲームレビューみたいになってきたな!というところで話を戻しますが、ユズをはじめとしてゲーム開発部に足りなかったのはそういった「経験」「取材」に裏打ちされた思考だったので、最終的に「これをゲームに活かそう!」と考えたことは咽び泣くほど素晴らしい成長だと思います。

 ミニゲーム「ゲーム開発部のお掃除大作戦」も、ここでの経験を生かして調度品をモデリングしたのかな……なんて考えるとしみじみしますね。


トキちゃんに信頼できる仲間ができた

 マジで良すぎません???????トキちゃんがゲーム開発部の仲間になったのって……。

 トキちゃんは寂しがり屋であるにも関わらず、特殊な環境のせいであんまり人との接点が持てない子でした。いまでこそ先生という「安心拠点」を頼りに冒険を始めていますが、人のコミュニケーションについてはまっさらな白紙状態。このへんは絆ストーリーを見れば分かるのですが、まるで赤ちゃんみたいな感じです。思いが表情に出てこないのも、乳幼児のまだ分化していない原始的な感情を思わせます。



 めっちゃ表情増えたよね…トキちゃん。
 先生に支えられながら、そしてC&Cの先輩に愛されながら、いろんなことを経験して感情表現が枝分かれしてきたんだろうな…。抱きついてきたアリスを愛でる姿も、自分より小さな存在を庇護する余裕ができたことを感じさせて良い。
 まっさらでいま人との関わり方を学んでいる最中という点においては、アリスも似た者同士なんですよね。アリス自身も純粋で無垢であるがゆえに愛情を率直に伝えてくる、という長所がありますが、アリスが成長するなかでゲーム開発部から学び取った仲間意識をトキにも教えてあげている…という構図に感じ入るものがありますね。


 トキをひとり置いていったのも、ネルなりに「あいつなら大丈夫だろう」と信頼していたんだよな……。なんかネルのそういうところもいいよな……。


清澄アキラという美の番人

 さて、本イベントの大ボスというかカギを握るアキラですが……も~~~~~~~~そうやってすぐ良いキャラ出してくるからブルアカはよぉ~~~~~~~~~~!!!!


 アキラは本当に絶妙ですね。七囚人と言われるだけあって悪党として形作られていつつも、一欠片の理性が魅力を演出している…。
 下手するとアキラ、すんげ~~~~ヤな奴ですよ。私しか美を理解している者はいないとか高慢ちきな無茶苦茶を言ってるエゴイストなんですけど、でも「人を傷つけない」というポリシーや先生と自分の考える美を語り合うシーンが良いのよほんとに。


アートは見る者によって解釈される

 このイベントの中核を担うと表現しても過言ではないアキラの行動原理というか動機は、ざっくばらんに言うと「ふさわしい人に見られないと作品の価値が下がるから私が保護する」というようなものですね。これはこのあたりのセリフで詳しく説明しています。


 これ、アキラの盗みはともかく、アートの見方としては非常に的確な意見だなあと思います。アートとは見た者が価値を決めるがゆえに、たとえばイベントで銅田がやらかしたように売り払うために盗まれたり、金銭的価値だけで推し量られるといった悪い鑑賞の仕方をされてしまうことがある。あるいは、"路傍の石"のようにくだらないものなのに大衆にありがたがられることも。


 アンティークな美術品とは少し違うのですが、「鑑賞者が作品の価値を決定する」というアキラの主張については現代アートがわかりやすいです。
 例として、マルセル・デュシャンという人が「泉」というタイトルでこんなものを展示しました。


Elsa von Freytag-Loringhoven, 1917, Fountain, photograph by Alfred Stieglitz

 そう、横倒しにしてサインがつけられた小便器です。美術の教科書とかにも載っているので見たことがあるかもしれないですね。
 マルセル・デュシャンという人は「レディ・メイド(既製品)」という作品群が有名な人で、市場で売られているすでにあるものに少し手を加えて展示するということをやっていたアーティストです。
 ふざけんな、こんなもんがアートになるわけねえだろ!……と思う人も当然いたのですが、この作品の意図はまさにそこにあったんです。

便器を見てもただの便器。しかし、便器にサインされたものが美術館という権威のある場所に展示されたとき、果たしてそれは便器なのか?それともアート作品なのか?デュシャンの「泉」を前にしたとき鑑賞者は、頭の中にたくさんの??が点灯するはずです。「なんでこの便器がアートなの?」と。しかし、その過程で彼の考えを知ったとき頭の中でハッと何かに気づくわけです。

つまり「アート作品は目前にある美しい絵画」という概念から、「その作品を起点にして、鑑賞者の頭の中で完成するのがアート作品だ」というコペルニクス的転回が起こったわけです。

大黒貴之 / マルセル・デュシャンの「泉」:なぜ、この便器がアートになるのか?
(https://k-daikoku.net/duchamp-fontaine/)


 おれは芸術的素養が乏しいので彫刻家の方のお言葉を引用させていただきました。
 アートとは当然、作った人による自己表現ではあるのですが、そこにどんな意図を込めていたとしても鑑賞者の頭の中でストーリーが形作られて決定してしまうのです。むしろ、見る人それぞれの中で「ああなんじゃないか、こうなんじゃないか」と展開された物語こそがアートの最終形となります。デュシャンの「泉」はそのことをつっついて意識させました。
 しかしこれはアキラの言う通りで、良いことばかりとは言えません。たとえ作家が作品に愛情や工夫をどれだけ込めていても、見る人がわからなければわからない。作品に込められた意図が面白くて素晴らしいものでも、見る者のレベルがそれに追いついていなければ正しく評価されない。作品とは作者の好む好まざると関わらず、強制的に見た人とのコミュニケーションになってしまう……「鑑賞者の解釈のしかたや理解度によって、作品の内容が変質してしまう」ということです。アキラはそれを恐れるがあまりに、「美術館にすら渡せない」と極端な思想に染まっているんですね。


 ここ、なんだかさっきのゲーム開発部のテイルズ・サガ・クロニクルが酷評されていたことを思い出しませんか?
 単純な出来栄えだけを見ればおれがボロクソ言ってしまったように(可哀想だけど……)ひどいゲームかもしれませんが、アリスにとっては開発者の愛情という要素を入れた上で頭の中でストーリーが展開し、テイルズ・サガ・クロニクルを評価しているんです。とてもツラいゲームであっても、横でワイワイするふたりを見て「モモイとミドリは、ユズと一緒にこのゲームを作るのが本当に楽しかったのですね」と思っている。
 だから他のレビュワーたちと同じ作品で同じ苦行をやらされても、開発者たちの幸せそうな姿を知っているアリスという鑑賞者にとってはいいゲームなのです。

 おれはこのイベント、ゲーム開発部がいままで紡いできた「クリエイターに捧げる讃歌」とは対になる「鑑賞者(プレイヤー)とはどうあるべきなのか」の物語になっているんじゃないかと思います。
 作品を眺めるときに、「カネになるかならないか」といった俗悪的見方にだけ染まれば、銅田のような作品を利用して悪事を働く輩に堕ちかねない。「私しか価値を理解できない」と傲慢に構えていれば、アキラのような狭い視界に囚われてしまう。
 アキラの言う芸術観は極端ではあるものの、ゲーム開発部のイベントに通底する「創作」のテーマを語るにふさわしい、含蓄あるものだと言えます。

アキラは傲慢だけど賢い子

 人々が見るに値するくらい成熟するまで、作品の価値が分かる私のみが鑑賞する…アキラの理屈はだいたいそういったものになっています。う~ん非常に傲岸不遜ですね。ここぞとばかりに驕るなーーーーー!!!!とか言いたいところですけどまあ自分に正直なところはよろしい。
 ただ、この考え方にはいくつか穴があって、アキラ自身もその論理的陥穽には気づいているフシがあります。

 まず、もっとも美術品を見る目があるのはアキラだと誰が保証するのか?という問題です。


 ここは先生に打ち明けているとおり、アキラは世間的には狂人だと後ろ指差されることを若干気にしています。つまり、「自分がそう思っているだけかもしれない。我こそは至高の鑑賞者だと言い切れるのだろうか?」という不安がアキラの中でほんの少しだけ残っているのだろう、と察することができます。Who watches the Watchmen誰が見張りを見張るのかならぬ、誰が評者を評するのかといったところですね。

 また「誰もアートを理解できないからいつか理解者が現れるまで保管する」という考えは、「待ち」の思想でしかないわけです。
 たとえばアキラの奪った絵がもし街角の美術館に飾られていたら、作品の前で足を止めてその後の人生が変わった人がいたかもしれない……。あるいは、大芸術家や素晴らしい評論家になるやも。その行動次第でもっと素晴らしい未来が来るかもしれないのに、ヴァルキューレの対応を信用しようとせず、「真の価値」が理解されないことを恐れすぎて寄贈もしない。アキラは未熟な人々を"つぼみ"と称するけれども、葉に光を当て根に水をやるという考えが抜け落ちているんですね。

「自分を殺して全体のために働ける奴ってのもいるんだろうが、それはそれで胡散臭い。ネオ・ジオンのシャアとかな……すべて人のためだと言いながら、隕石落としをやる。本当は、人間を好きになったことがない男だったんじゃないかな」

ダイナーの老店主 / 機動戦士ガンダムUC

 雑に引き合いを出してしまうと、ガンダムにおけるシャアのように今の人類を諦め、対話より強引な方法を選んでしまった……というところではないでしょうか。どうせいまの人々に芸術の分かる人なんかいないから、出てくるまで待ち続けよう…そうして、理解ある人を探したり啓蒙する頑張りを投げ捨て、強引に美術品を奪い取り、あとは全部時の流れに放り投げている。「いつか美の理解者が現れることを願って」なんて言いつつも、本当は誰のことも信じていないんです。
 こうまで人のことを信じていないのは、何か壮絶なことがあった上で芸術に絶望したのではないか……と思わせますね。


 ここに関しても、アキラはおそらく自分のことを指して「歪んだ子」と言っています。
 言動からも分かる通りアキラはもともと聡明な子のようなので、そういった自分の行いの矛盾・美しくないところについて内心気づいていたのではないでしょうか。自分で自分の悪いところに気づける子なんですよね。
 七囚人なんて言われる手前、設定上アキラは悪人でなければいけないのですが、彼女の中で渦巻く悩みや葛藤を吐露させることでギリギリのところでただイヤミなだけの存在にならず天秤をつり合わせている。とても魅力的な生徒だと思います。


アキラと、何度でも信じて助けるという先生の在り方

 これに対して、先生は「寄り添って見守る」「必ず手を差し伸べる」ということをアキラに伝えます。


 これ、一見いつも通りというか、先生がいままでいろんな生徒に対してかけてきた……まあ悪い言い方をすると使い古した定型文のように見えるのですが、アキラにはとても刺さる言葉だと思います。

 前述した通り、アキラは人々にある種の絶望をしており、諦観に入っています。ですが、先生は「アキラがどれだけ間違っていたとしても最後までそばにいるよ」「きみも私の生徒の一人だよ」と言っている。つまり「いまの人々の審美眼はもう諦めた」「私は孤独な存在だ」というアキラの考え方とは真っ向から反対の熱い言葉なんですね。


 「ああ、世の中にはヒトを絶対に最後まで助けるし、信じぬいて戦う人がいるんだな…」と、その事自体がアキラを諭し、冷え切って人間不信になった心を温める言葉になっていると思います。凍りついて止まってしまったアキラに他人を見限らないで、どうかお互いに歩み寄るための / 人々を良くするための努力をし続けて欲しいとメッセージを送っている。これまでずっと世界と生徒のことを諦めないで走り続けてきた、ブルーアーカイブにおける「先生」の言葉の重みが凝縮されたシーンですね。



 ……まあ、結果として先生のヤバいファンが一人増えてしまったわけですが……。本人は幸せそうやし、結果オーライなんちゃうかな!がんばれ先生!ワッハッハ!!(適当)


 さて、今回もいいイベントでしたね。ゲーム開発部の成長、トキを取り巻く人間関係の進歩、アキラという悩める子供への答え……。子供が成長するのを見るのはなんか気持ちがいい!
 スイーツ部イベントの復刻と待ちに待ったレイサの実装も来そうな感じですし、これからもとても楽しみですね。これから初めて読む先生はぜひレイサ沼に堕ちて欲しいとニチャニチャしながら眺めています。
 いまのところスイーツ部イベントの振り返り記事を書くかどうかは未定ですが、前回のときにはてなブログで書いた記事に細かく手を入れて再掲でもしようかなと思います。よければまた読んでやってください。

 ダラダラと長い記事になってしまいましたが、読んでくださりありがとうございます。近いうちにまた会いましょう。




(すんげえこじつけでエエ話風にまとめたけど…バレてねえからヨシ!)





荒野をさすらうあなたを
眠らせてあげたいの
流れ星はあなたのことね

炎と燃えさかる わたしのこの愛
あなたにだけは  わかってほしい

謎めく霧も晴れてゆく

炎のたからもの / BOBBY


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