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ファミリーヒストリー6 アメリカ軍の反転攻勢

1942年(昭和17)年、日本軍はミッドウェー海戦での敗北を契機に太平洋各地で退却を重ねていく。当時、大本営は「退却」することを「転戦」(作戦変更しているだけ)と言い換え、部隊が「全滅」すると「玉砕」(玉のように美しく砕け散った)と言い換え国民の戦争意識を維持しようとしていた。

そして、1944(昭和19)年10月22日に帝国海軍が建造した最後の大型戦艦「武蔵」がレイテ沖海戦で沈没。連合艦隊の組織的戦闘能力はこれで失われたといっていい。

1945(昭和20)そして米軍はコレヒドール島を足掛かりにフィリピンの首都マニラへの大規模な侵攻を開始する。
コレヒドール島の戦闘ついて調べていくと、防衛研究所戦史資料室が所蔵している「戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降」(朝雲新聞社 1972年)に詳しく記述されていた。ちなみにこの資料は防衛研究所のHPで無料公開されており、誰でもアクセスすることができる。


この本の「【第八章】レイテおよびマニラの喪失ーマニラ湾口の戦い」によると

1944(昭和19)年10月末 
フィリピン沖海戦の生存者(この中には戦艦武蔵の生存者も含まれる)がコレヒドール島に配置される。

1944(昭和19)年11月
設営隊が投入され砲台工事、鉄道工事が開始。震洋隊、防空隊が配備される。

ここで出てきた「震洋」という言葉、ご存じだろうか?これは日本軍が開発したベニヤのモーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たり攻撃を仕掛ける特攻兵器だ。このころの日本軍は、それほどまでに追い詰められていたのである。

特攻兵器「震洋」

1944(昭和19)年11月14日
陸軍のマニラ防衛隊の一個大隊を基幹とする湾口支隊がコレヒドール島に配備される

1944(昭和19)年12月22日
マニラ湾口防衛部隊が編制され、指揮官には三一特根首席参謀兼副長の板垣昴大佐が就任。
この時の湾口防備兵力はコレヒドール島4500人(うち陸軍1500)、設営隊千数百人規模であった。

1944(昭和19)年12月23日
”敵艦隊北上”
と報せが入り、震洋隊が出撃準備を行った。しかし、この時火器取り扱い不注意により震洋に装備した爆薬に引火。震洋75隻、陸軍特攻艇14隻を失う。陸海軍併せて150名がこのとき戦死した。結果的に敵艦北上は虚報であった。

1945(昭和20)年1月10日、1月20日
コレヒドール島に米軍の空襲

1945(昭和20)年1月23日
コレヒドール島にB-24  10機が襲来。第四号海軍トンネル内の弾薬が誘爆し、各種砲弾、弾薬5519発を消失

1945(昭和20)年1月24日
コレヒドール島に敵機百数十機が爆撃を行う

1945(昭和20)年1月26日
コレヒドール島に敵機数十機が爆撃を行う。震洋25隻が大破、兵舎・衛所も大破

1945(昭和20)年1月27日
「死没者調査票」によれば、この日に曾祖父は弾薬庫の爆発で亡くなっている。

1945(昭和20)年1月28日
24日の被爆に起因して、誘爆による大爆発が発生。島内ほぼすべてのトンネルが埋没。死者300名を出した。

1945(昭和20)年1月30日13時
スビク湾に戦艦2、巡洋艦3、駆逐艦8、掃海艇15隻が侵入
【コレヒドール島残存兵力】14糎砲9台、12糎高角砲5台、8糎砲7台、25粍3連装機銃4台、25粍単装機銃20台、13粍機銃20台、7粍七機銃14台、震洋艇100、魚雷艇2

島内各所との連絡は夜間の徒歩伝令のみに頼っていた

1945(昭和20)年2月6日
敵19機が銃爆撃、魚雷艇数隻が湾口で活動。

1945(昭和20)年2月9日
延べ190機による米軍の銃爆撃、弾薬庫誘爆により大中口径砲弾5300発、燃料約78トンを消失。1月下旬以降米軍が投下した爆弾は3200トンに達し、南西太平洋戦線で最大密度であった。

1945(昭和20)年2月10日
敵艦隊が出現し砲撃を開始

1945(昭和20)年2月13日
米軍の掃海艇1隻撃沈、日本軍の震洋19隻大破


そしてついに、米軍はコレヒドール島への上陸作戦を決行する

                               つづく



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笹川アキオ
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