「共感性」の毒
「共感性」というものについて考えている。
共感力とは、他者の痛みを自分のもののように感じる(感じてしまう)能力のことで、優しさの大前提だし、社会にとっても大切なものだとは思う。
ただし、共感性は毒にも薬にもなる。
辛い経験をした者が、同じく辛い経験を今している人間に対して共感力を発揮し、優しくするかと言えばむしろその逆のケースがあるということだ。
例えば、姑から苛烈な嫁イビリを受けてきた人が、自分が姑になった時、同じように嫁を苛めるというのはよくある話。
曰く、
「私だって耐えたんだから、お前も耐えろ」
「辛いのはお前だけじゃない」
それは他者への共感ではなく、他者に自分への共感を強要する態度だ。
DVの人とかもそう。
DVする人って、大抵「外面が良い」。
共感力の高い人が、社会では「外面良く」振る舞いながらも、その高い共感力ゆえに傷ついてストレスを貯めて、身近な人にそのストレスをぶつけている、という構図だと思う。
「他者」への共感で心をすり減らした人は、身内に対しては暴力性を発揮する。
身内、あるいは近しい人を「感情のゴミ箱」扱いしてストレスをぶつけて、「俺がこんなに傷ついてるんだから、お前も傷つけ」「俺も耐えてるんだからお前も耐えろ」って発想になる。
ここでの「近しい人」というのは、彼にとっていわば「拡張された自己」。
子供が母親に対してとる「お母さんなんだから分かってくれて当然だ」という態度と同じ。自分への共感を求めて当然の相手なのだ。
端的に言って「甘え」である。
嫁姑、DV、機能不全家庭…etc.
そうやって、不幸が連鎖する。
毒親に育てられた子供が毒親になるのは自然なこと。不幸の連鎖ってわりと普通。
その連鎖を断ち切って、乗り越えられる人の方がむしろ稀なのかもしれない。そういう人たちにこそ、学ぶべきものがある。
そこにあるのは、「メタ的な視点」と「知性」だ。
フィジカルにただ「共感」するだけではダメで、メタフィジカルにその事象を捉えて、なおかつその「辛さ」の正体をつぶさに考察できる知性が必要なのだと思う。
それでこそ、共感性が毒にならず、薬として良い作用をもたらすのだ。