見出し画像

さらけ出す勇気よ湧き上がれ・・・!

毎日21時から各種打合せをすることが常になってきました。
おかげさまで次回のワークショップの予定が立ち、どういうふうにしたら自分が楽しいか?をやっと考えることができるようになりました。
まずやる、をクリアして、着実に次の段階へGO!

昨日、「ありのままって何なの?」ということに思い至り、
AIくんと壁打ちをしました。

ありのまま、自由にふるまえる役者になりたいー
そう思っています。しかし。このありのままって何なのさ?

いきいき、わくわく、ききらきら、自由に、ありのままに

巷のイメージに引きずられている。ありのままってそんないいものじゃないのでは?と思ったのです。前向きキーワードって最大公約数のキラキラなイメージがくっついてきちゃう気がする。

私、以前「舞台上で生きているように見えたよ」とちょっとだけ褒められたことがあるのです。
でもその芝居、超~しんどかった。
正解がわからなくて本番中も苦しかった。手ごたえがなかったので常に何かを感じようとしてた。段取りも複雑だった。いわゆる不条理演劇(作・別役実)、ほとんど属性というヒントなく、性別も年齢もわからない。ただ登場人物との関係の上で吐かれた言葉がセリフとして脚本につづられているだけ。どうでもやりようがあるようで、この人物を伝えるやりかたは意外と狭い・・・観客に特定のイメージでとらえらえたくない・・・。えっ、じゃあどうしたらいいんですかね??

今考えても激ムズイ。もうできないかもしれない。
自分でもうまくできたとは到底言えないが、確かにいつもと違ったのは、

・自分の頭のなかのイメージをなぞらなかった(イメージがなかった)
・常に考えて感じていた(集中し続けないとセリフが言えない)
・「いける!」って思えないで本番に突入した

常に考え感じ続ける、それがまさに「生きている」ように見えているとしたら。舞台上でありのままでいることってすっごいキツイじゃんか。と。
苦行かと。

一歩役者として進んだことはすごく嬉しい。半面、この苦行が自分にとってすごく「閉じている」と思えるときもある。
また、この「ありのまま理論」が最上である、というある意味正解に向かっている自分も閉じているように感じるときがある。開いているように見えている自分の中身はガッチガチに閉じている?みたいな?

ありのままって、ラクでハッピーで油断している状態だけじゃなくて、
めっちゃきつくて素がでている状態もよね。素の自分でバンバン判断していくことでしか先に進めない。借りてきた行動や考えだと進めることができない感覚?強くて物申せる起業家みたいなひとって、生来そうなだけじゃなくて、そうならざるをえないほど必死に研ぎ澄まされているってこと?と。

あとは今の自分が「いい!」と思ったことに自信をもちたいね。もっとイケてるやつを目指すけど、そこに到達するまではゼロで、到達してからやっと何かを始めるのかい?という。イケてない自分から出発するしかないよねという。なんだろー、成長を否定するわけじゃないけど、いま素直にいいねと思っているものから発展させることでしか、楽しめないよね。
だからさっきの「ありのまま」の役は、これからも挑戦し続けるべきなんだと思う反面、そりゃ激渋くてライフワークレベル。だからいま考えたただ面白いやつもどんどんやっちゃおうと。茶道の前に抹茶フラペチーノ的な。享楽に一所懸命まずやってもいいじゃん。

なんでそこ、すぐいけないかというと、「抹茶フラペチーノかよ」ってつっこみが怖いからだよね。でも本当に抹茶フラペチーノがうまい!と思っているんだったら、そんなジャンクな自分を受け入れた方が面白いものができるんじゃないかしら、と思って。つっこまれたり失敗したりすることがこわい。でもほんとは、えいやっとやっちゃいたいことがある。すごい子供っぽいことと、思考実験みたいなことと色々ごちゃごちゃになってる。でもそこを通過する勇気をもたないとわたしがやる意味がなくなってしまうと思うの。わたしがやる意味。できたものが失敗でも、そこにわたしが漂っていなければ。

自己と表現は違うと思うけど、それぞれが本質を発見し、さらけだす勇気を得た時、またなにかが見えると思う。
そんでそのためには、自分を小出しにしていかにゃ!
思ったことバンバンだしまーす、無難は敵!
イイと思ったもの、ことに身を包んでGO!


いいなと思ったら応援しよう!