奥会津の冬と三八(さんぱち)豪雪
北日本では雪が多いというこの冬
雪国で過ごした子供の頃を思い出しています
遡ること60年あまり前、新潟県北魚沼地方と
奥会津の村に住んでいました
北魚沼(現魚沼市)でひと冬
奥会津でよっつの冬を過ごしました
父は公務員で転勤の多い職業でした
昭和36年冬は新潟県入広瀬村にいてひと冬を過ごしました
夏休みに長岡から引っ越して2学期から村の小学校に転入しました
只見線が全面復旧した2年前の10月、会津若松から小出までのローカル列車の旅をした
上記の画像はその時のもの
その冬も大雪だった
雪が降り止まず何mと積もり、吹きだまりでは10mもあると聞いた
大人たちは雪下ろしと雪かきに余念がなく、子供たちは子犬の様に遊んだ
翌年の秋、また父の転勤で福島県奥会津の村に越した
後に世間では、三八(さんぱち)豪雪と呼んだ、北陸から東北北日本一帯が37年冬から明けて38年2月まで降り続いた豪雪の年
道路は雪崩で塞がり、村は孤立した
当時はまだまだテレビがないのが当たり前の時代
普段から1日遅れだった新聞が届かなくなった
何が起きているか子供にはよくわからなかったが、ヘリコプターで支援物資が送られたことは覚えている
幸い、小学校は近かったけれど、吹雪の日には全身雪まみれになり学校から帰った
手足は冷たいを通り越し、髪の毛は凍ってパリパリ
手袋の中の手も長靴の下の足もかじかんだ
妹は毎年しもやけになった
学校から帰るとストーブの前で衣類や長靴を乾かした
家は秋のうちに冬囲いをする
近所の方に手伝ってもらって、窓から上を木材を釘で打ち込み囲った
囲ってしまうと家の中はどんよりと暗くなり、昼間でも電気をつけて過ごした
雪が降りだすとそのまま玄関から出られないので親が玄関の先に雪の階段を作る
一晩で積もった雪は雪の階段を形のないものにする
形がなくなった階段をまた作り直す
学校へ行くまでの道に出るまで「かんじき」でラッセルしながら道を作る
雪国での暮らしは楽ではなかったろうな。大人たちは
近くには小さな雑貨店があるだけで
食料はほとんどが保存したものが主になっていた
白菜を大きな樽に漬け込む 春になるまで食べる、たくわんも同様
大根やゴボウなど根菜類は雪の下の土を掘った中に埋めて置く
タンパク質は鯖や鮭、鯨の缶詰、サンマの塩漬け、ソーセージ
春に収穫したぜんまいを干したものやわらびの塩漬け、切り干し大根
甘いものは・・・干し柿…乾燥芋
どこの家もそうして冬に向かって準備をしたのだろう
それが当たり前と思い、過不足は感じないで何年も奥会津での冬を過ごした
雪が降る日は濃い空が広がり
たちまち空から白いものが舞う
寒さで鼻の奥がつーんとする
雪が止んだ夜、外に出ると
吸い込まれそうな闇の中、
空を見上げると満天の星
透き通った空気は冷たく、
凜として冬が佇んでいた
雪の朝外に出ると
辺り一面白銀の世界
出たばかりのお日様が景色をキラキラと照らした
学校が休みの日は大きな「かまくら」を近所の子たちと作り、夜にはみかんや餅などを持ち寄ってみんなで食べた
ワクワクする時間だった
住んでいた家の前が坂になっていて妹たちと「そり」遊びをした
そりが転覆して小さい妹が投げ出され泣いた・・・笑った
登校中に、飼い犬が後ろから付いて来て困ったことがあった
鎖を放してもらって遊んでいた雪の朝
荒縄で首輪に縛り、下校するまで、校舎の裏に繋いでおいた
また、雪の朝、カヤノキを採りに飼い犬と行ったら、はしゃいで暴れて
小学生の私は雪の中に押し倒されてしまった
カヤノキは多分、クリスマスの飾りつけに使ったと思う
北日本の大雪の情報を聞く度に思い出される奥会津で過ごした冬の日のこと
時代は移り、便利な世の中になり、モノに不自由することは少なくなったと思うが雪の中での生活は雪かき、雪下ろし、
車の運転にも支障をきたす
停電もする
それでもあの頃を思い出すと胸を締め付けられる。
懐かしさと雪の匂い
一緒に暮らした家族のこと
モノは少なく、いつも何かを求めていたと思うけど、
かけがえのない時を過ごしたと改めて思う
今日のニャンたち
今日は長くなりました~
読んでいただきありがとうございます
あかね空