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西会津町極入(ごくにゅう)に思いを馳せる

西会津町野沢に住む叔父に送った、魚の干物が到着したらしい。

昨日の朝、電話がかかってきた。
シャイな叔父は電話口で何やらもぞもぞと話していた。
「このたびはうんめえものおぐってもらって・・・ありがどな」
「うんめえもん食ってねえって言ってたから、どうかなと思って」
電話の向こうで笑い声が聞こえた。

「元気?」
「ん・・げんきだわい」
「雪降った?」
「ちっとんべふった」

そして、叔父が住むところからさらに新潟方面に行ったところに磐越西線の「徳沢」という駅がある。

その昔

ワタシが生まれる前のことです。
父が営林署に入りたての頃、赴任した先が現在の徳沢の駅からさらに山奥に入った極入(ごくにゅう)というところだった。
営林署というのは山の保全、植樹、伐採など山に関わる全般をやる国の機関の一部だったと思う。

当時、母は日立の鉱山病院の看護婦として働いていて、遠戚関係で自宅に出入りしていた父と恋に落ちた・・・。

で、遠い記憶と父の日記をまさぐれば、母は(まだ母ではない)
看護婦を辞めて、
親の反対を押し切って、
恋焦がれた父(まだ父ではない)を追って、
常磐線から磐城で乗り換えて、
磐越西線で徳沢へ。
昭和25年10月だったというから紅葉が美しかったろうか。


ひなびた駅「徳沢」2019年10月撮影

2019年10月 徳沢から極入へ。

この年の6月に母が亡くなって、介護生活から解放され、穏やかな日常が戻った時に、
父と母の足跡を辿ろうと思い立ち、計画を立てた。

1泊目は昭和村。
父や母、祖母、妹たちと5年間暮らした奥会津の村。
多感な思春期を、四季の移ろいの中で過ごした。

2日目は喜多方の従姉妹に会い、そのあと野沢のホテル泊。
3日目に極入に向かった。

途中、徳沢の駅に立ち寄り佇んだ。
辺りには民家が少しだけ。
母が昭和25年10月に駅に降り立った時はどんな光景だったろうか。
何もない山奥での暮らしに不安はなかったのだろうか。


極入(ごくにゅう)という珍しい地名

父が元気だった頃、「極入」という言葉はよく聞いていた。
ここだったんだな・・・と昔、父と母が歩いて暮らしたであろう・・・
若くて貧しい二人が、身を寄せ合って。

ヘッダーにも載せた奥川の流れ。
この辺りに貯木場があり、事業所もあったと思われる(推測

地元の方に昔の話を聞いたが、なんせ、70年前のこと。
営林署の貯木場があった辺りは教えてもらった。

多分、自身の命はこの地で授かったと確信している。
そのあと、転勤を、紆余曲折を織り交ぜながら現代へと移っていく。

母は器用で機転が利いてずっと父を支えてきたと思う。
父は文学青年を気取っていて(多分)、文章を書くのが好きで達筆だった。
そして不器用な人だった。
釘を一本打つのに自分の指を打ったり、庭で不要なものを焼いていれば、自分の着物に燃え移って焼死を免れたとか。
言い出したらキリがない。

西会津町に住む叔父と30年前に逝った父の面影を重ねて、過ぎ去ってきた日々に思いを込める年の暮れ。








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