欠点を切り捨てて大人になることは正しいのか?――「いなくなれ、群青」が問う自分との向き合い方
人は誰でも異なる人格を持っている。
それは生まれ育ってきた過程で形成されるもので、その人の考え方や行動に大きく影響を与える。そのため成長するにつれ、持ち合わせた人格が時に社会で生きる上で邪魔になったり、選択を阻害したりすることがある。
それでも人は日々生きていかなければならない……よって自分の人格と折り合いをつけて、生き抜くために最良の道を選ぶ。それが「大人になること」だと信じて。
河野裕原作でこのほど映画化された「いなくなれ、群青」は、そんな人間の人格と大人になる過程について改めて考えさせられる作品だった。
物語の舞台は階段島。人口2000人程度のこの島は「捨てられた人たち」が集まっているが、何に捨てられたのか、なぜここに来たのかを知る人はいない。島を出る唯一の方法は“失くしたもの”を見つけること。人々は突然の出来事に困惑しながらも、謎めいたこの島での生活を受け入れて生きていた。
主人公の七草も、3ヵ月前にこの島に突然やってきた高校生。なぜ自分がここに来たのかは分からないが、特に不自由なく生活できる環境に不満はなかった。しかしある日幼馴染の真辺由宇がやってきたことで、七草の心はざわつき、平穏な日常が変化していく。
七草は悲観主義者で、真辺は理想主義者――本来なら敵対してもおかしくないふたりだが、七草はどこまでもまっすぐで直線のような真辺に憧れを超えた感情を抱いていた。それは恋とも違う、ある意味崇拝に近い感情だったのかもしれない。七草にとっては真辺が真辺のままでいることが絶対で、そのためなら自身を犠牲にすることも厭わない……そんな強い信念を抱いている。とても高校生とは思えない、大人びた思考の持ち主だ。
対する真辺も、自分を受け入れてくれる七草は大切な存在だった。しかしそんな関係を維持するために、七草の大きな献身があることにはまだ気づけていない。この点が最終的に真辺が階段島に来た理由に繋がるのだが、真辺は自分が置かれた状況を受け入れることができず、島から脱出する手段を探し始める。その行動が、再び七草を追い詰めることになるとも知らずに……
何事も悲観的に捉え、感情を表に出すことなく常に達観したかのような表情を見せる七草を演じたのは、横浜流星。原作も読んでいるが、彼の静謐な芝居は七草のイメージにぴたりとはまっていた。特にひとり物思いに耽る時の憂いを帯びた眼差しや、屋上で友人のナドと語り合う時の大人びた表情には引き込まれる。クラスメイトといる時の表情とは明らかに違う、七草というキャラクターの本質を上手く表現していた。
何よりもよかったのは、七草のモノローグ。原作も七草によるモノローグが物語を支えているが、映像化にあたってはこのモノローグをどう生かすかがかなり難しかったはずだ。しかしただでさえ難解なストーリーを説明するのに、冗長にならない程度の適度なバランスでモノローグが効果的に挿し込まれていた。そして柔らかくて耳にすっと馴染む横浜流星の声が、群青の世界観にぐっと引き込む役割を果たしていた。
元々彼の声は一度聴いたら忘れない、印象に残る声だと思っていたが、今回のモノローグは抜群に素晴らしかったと感じる。
そして七草が何よりも大切にしている真辺を演じたのは、飯豊まりえ。まっすぐで常に理想を追い求める真辺というキャラクターは、人によっては受け入れ難い存在になりがちだが(実はわたし自身がそう)、作りすぎない等身大の演技で真辺らしさを表現できていたと思う。凛々しさ、という意味では少し物足りなさを感じたが、透明感溢れる演技はわたしがこれまで見た彼女の役の中で最も魅力を感じた。
また七草と真辺、ふたりに関わる登場人物たちもなかなか魅力的だった。口数は少ないけれど、物語のキーパーソンとなる堀を演じた矢作穂香の存在感は光っていたし、みんなのまとめ役である水谷を演じた松本妃代、明るくムードメーカー的な存在の佐々岡を演じた松岡広大、内に秘めていた悲しい過去を乗り越えようともがく豊川を演じた中村里帆、それぞれの瑞々しい演技が素晴らしかった。
そんなキャストたちの魅力を最大限引き出し、群青の世界観を作り上げたのは新鋭の柳明菜監督。長編作品の監督を務めるのは初めてながら、原作の持つ幻想的な雰囲気を損なうことなく、階段島の景色をはじめ全編を通して”青”が映える非常に美しい映像を撮り切った手腕は見事だった。次回作にも期待したい監督のひとりになった。
七草は真辺が真辺のままでいられるように、悲観主義の自分を捨てた。自分の人格の一部を切り取ることで、真辺を守ろうとした。しかし真辺は七草が七草自身を捨てたことに気づき、自らも階段島に来てしまった。七草にとってそれは耐え難いこと。「少しでも彼女が欠けるところを見たくないんだ」という台詞は、まさに七草の本音を表している。
悲観主義の自分がいなくなることで、真辺はそのままの真辺でいられる――そう考えてもう一度彼女を現実世界に戻そうとした時、七草が放った
「約束しよう真辺。僕たちはいつまでも、僕たちのままでいよう」
この台詞に七草の真辺に対する強い想いと悲壮な覚悟を感じて、涙が溢れた。ただ果たしてそれが本当に真辺のためになるのかと言ったら……答えは違う気がする。それは真辺自身が最後に言ったように、「そのままの自分たちじゃ上手くやっていけないとしたら、今までの自分たちが幸せじゃなかったことになる」からだ。
七草と真辺は悲観主義と理想主義という相反する人格を持っているが、それは決してお互いにとってマイナスにはならない。似た者同士は確かに波長が合うだろうが、正反対の者同士でも、お互いにない部分を補い合うことでより高め合える関係を築けるはずなのだ。
先に述べた通り、人間は社会で上手く生き抜くために自分と折り合いをつけなければならない時がある。わたしも過去にたくさんの苦い経験をして、自分の欠点と向き合い、本音を心に閉じ込めたり、大切にしていたものを捨てたりしてきた。「大人になる」というのは、「諦めることを覚えること」だと思っていた時期もあったくらいだ。
ただ自分が欠点だと思っていることも、周りから見たら魅力的に映ることもある。志半ばで諦めたことも、時間が経てば新たな可能性が見えてくるかもしれない。だからそういうことを切り捨てて「大人になる」のは、決して正しいとばかりは言えないのだと実感した。
自分自身と向き合うのは正直辛い。しかし欠点や弱さも含めて自分という人間を知ることは、必要不可欠なことだ。わたしも自分が失くしてきたものを、もう一度見つめ直したいと思う。この映画を観て、そう思えたことが少し嬉しかった。
七草と真辺の物語がどうなるのか……映画では結末をはっきり描かず、余韻を残して終わる。しかしふたりがお互いにとって、かけがえのない存在であることは間違いない。自分らしさを消すことなく、共に歩んで行ってほしい……そんな明るい未来を願っている。
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