行ってらっしゃい、爺ちゃん②
皆さんは鳥葬というのを知っているだろうか?
簡単に説明すると、
遺体を鳥が集まりそうな場所に置き、
鳥に食べさせることで遺体を天に送る葬儀方法である。
チベット仏教などで行われる方法らしく、遺体は魂の抜けてしまった物体として扱われる為
そのような方法になるのだとか。
(日本ですると死体損壊・遺棄罪になる可能性があります)
じいちゃんの遺体を見た時、
鳥葬の話が頭をよぎる。
「これは物だ。」
なんだか急にいても立ってもいられなくなり
急いでその場をはなれた。
「あれは物だ、じいちゃんだった物だ。」
と自分に言い聞かせる、死というものが凄く身近
に感じられた。
夕暮れの色が少し濃くなり始めた頃、
お通夜が始まった。
祭壇に並ぶ花の香りが部屋に満ちている。
僧侶の低い読経が響き、
その声が深く心に染み渡る。
ふと、じいちゃんとの思い出が頭によぎる。
爺ちゃんは物静かな人で、怒ったら怖く、
前栽をするのが好きで…
好きというか本人が前栽が好きと言っていた訳
ではなく、勝手に私が
「よく前栽してるから好きなんだろうな」
と思ってるだけなのだが。
でも、もう今となっては好きだったのかどうか
聞くことができない。
僕はじいちゃんとの会話をあまりしなかった。
それを後悔してるかっていったら、ガッツリ後悔
してるし、でも じいちゃんと向き合って
コミニケーションをしっかりとっていても
「もっとしてあげれることあったよな」
って後悔してた気がする。
死んだら会えなくなるんだなって、当たり前の
ことなのにどうして気づけなかったんだろう。
そんな事を考えている間に通夜は終わった。
翌日、葬式が始まった。
僧侶の読経が終わり じいちゃんの傍に花を供る。
この瞬間が、じいちゃんとの最後の別れだと
分かっていながらも、どこか現実感がなく、
不思議な感覚に包まれていた。
最近読んだ、
星野道夫さんの本にこんな一文があった。
「あらゆる生命がゆっくりと生まれ変わりながら、終わりのない旅をしている。」
じいちゃんは、遠くへ旅立つ準備をしているのか。
手向けられる花が増えていくに連れて
その実感が湧く。
花の手向けが終わり、
職員の方に
「これでお顔を見れるのは最後です。」と言われた。
私は棺を覗き込み、じいちゃん顔をじっと
見つめた。
静かで、穏やかで、まるで今にも目を開けて
話だしそうに見えた。
ふいに涙が溢れそうになるのを必死に堪えたが
目頭から温かい水が頬をつたって床に落ちる。
皆がじいちゃんと最後の別れを済んだのを
見計らい、棺に蓋が閉められた。
「行ってらっしゃい、じいちゃん」
心の中でそう告げながら、
私はゆっくりと目を閉じた。