「私をがっかりさせないでくださいよ」は実は真理だったのでは?と思った日のこと。
30代後半から、「なんかダメージがデカかった日」がけっこうあって、なんでだろう?なんでだろう?と考え続けてきた。
そして、ふと今日気づいた。「がっかりしたときの、精神的なコストってでかくね?」と。
がっかりすることのコスト
先に言っておくと、これから書くことは、あまりにも後ろ向きで、あまりにも利己的だから、誰かが、未来の私が、きっと「そんなことない!」と否定してくれるという期待をこめて書いている。大丈夫、そのことにはがっかりしない。
なんで、こんなに「がっかり」からくるダメージがでかいんだろう?と考えたときに、「経験を重ねるほど『がっかりの解像度』が上がってくるからなのでは?」という考えが脳裏をよぎった。
30代半ばくらいまでのがっかりって、「あー、やっちゃった。」「期待に添えなかった」などなど、「自分が反省し、次にそれを活かすことで改善できるがっかり」だと思う。
対して、30代後半からは、仕事をお願いする立場になるから、「頼んだときの状況が良くなかったのでは?」「そもそも、頼んでいいことだったのか?」「頼み方が悪かったのでは?」みたいな、「自分では介入できない要素に対する後悔とがっかり」が増えてくるように思う。
同じがっかりでも、後者のがっかりって、明らかに他者要素が入ってくる。でも、そこで他者を責めるのは、たとえ「スケジュール忘れてました〜」みたいなミスであってもお門違いだと思う。仕組みとか、こちら側のアプローチで防げたのではないか?という思いがむくむくと湧き出てくる。
それによるダメージって、けっこう大きいと思う。
なまじ、「頼んでた〇〇だけど、忙しそうだからやっておくよ!」「いえ、大丈夫です!やります」と言われてやってなかったときなんて特に…。
すごく雑に端的に正直に言うと
「任せて大丈夫だと思ったのに、大丈夫じゃなかったから、頼んだ自分にがっかりする」のだ。
こういう体験って、きっと年を経ることに増えてきて…。だから、きっと自分も先輩方にきっと同じ思いをさせてきたのかなーと思う。
だから、タイトルの
「わたしをがっかりさせないでください」は、傲慢でも、圧力でもなんでもなく、私からしてみれば「ただのお願い」なのである。
とはいえ、普通に使ったなら、絶対傲慢だから、使わない…。
これからの私は「がっかりしない」ことで身を守る
そういうがっかりが続いた日があって、けっこうダメージでかかった。自分ごとにしてもらうような設計をしなかった自分が悪いことはわかっているが、「頼まない」という方法で防げたことだなぁと思う。
それは、組織としては、完全に悪手だと思う。仕組みをつくる機会を逸しているのだから。
とはいえ、そのために自分のメンタルを削るのはおかしいし、そのために他人のスケジュールまでリマインドするのは違うと思う。自分のメンタルを鍛えるまでは、というか、少なくとも、メンタルが下向きのときは、「がっかりしない」を選択肢の一つにしたい。
反撃するのはそれからだ!
(仕組みづくりとかそういうことだよ!!念のため)
終わりに
なんか、久々のnoteが暗い話になってしまったのが残念。
次は明るい記事を書こう。
おわりん♪
追記
逆もまた然りと心得よう。つまり他者を不用意にがっかりさせないこと。
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