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下総から武蔵へ、頼朝軍、隅田川越え 吾妻鏡の今風景10
安房に辿り着いた頼朝の軍勢は、下総から武蔵をめざす。おそらく、国府台から嶋俣の里(柴又)へ、そこから隅田宿、そして隅田川を渡って石浜神社のあたりへ。
『吾妻鏡』には(旧九月二十七日)、頼朝は江戸重長に使いを送り、「武蔵は汝が棟梁である。もっとも頼りにしているので近辺の武士達を率いて参上せよ」と伝えるが、重長は応じようとしなかった。その時、頼朝はまだ下総国にいたはずなので、嶋俣の里(柴又)で、団子でも食べて…いや、当時の嶋俣の里には帝釈天はまだなく、団子もなかったけど。
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江戸重長がいたのが、石浜城。石浜城を、待乳山のあたりとしている文献もあるのだが、待乳山、現在の石浜神社のあたりまで含んでいたと考えるべき。対岸は鐘ヶ淵。
石浜神社は、南千住から白髭橋をめざし、橋を渡る手前の左側。ガスタンクがランドマーク。
寺社仏閣は、旅の途中の水の補給場所として、あるいは道しるべとして重要な場所であった。歴史的な古道を探しながら走っていると、必ず古い神社がある。
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浅草は、石浜神社よりも下流で、飛鳥時代、隅田川の河口で網にかかった観音像を祀った寺が浅草寺。
浅草より下流といったら、波打ち際か海の底。現在の台東区の標高は、浅草駅周辺で2m、浅草寺が4m。低い場所には堆積物が溜り、時代が経るにつれて少しづつ高くなり、高かったところはだんだんと削られて低くなっていく。と考えると、平安時代の浅草寺のあたりは今よりも高い丘陵で、その周囲はすべて低い湿地(浅瀬)であったのだろう。つまり、浅瀬に草www
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スカイツリー🄬周辺は(今でもマイナス標高であるが)波がちゃぷちゃぷしており、そもそも押上という地名は、波が押し上げてくる場所であることから名付けられた。
頼朝より350年も前に京からやってきた業平が、言問橋付近で水辺に群がる見慣れない鳥の名前を舟守に訪ねると、都鳥(実際にはユリカモメ)であると教えられ、(たぶん呆れて)「都鳥という名前なら、都にいる恋しい人の消息を教えてくれよ」と、嫌味とも思われる歌を詠んだのは、スカイツリー🄬のあたり。→「名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
ミヤコドリとユリカモメは違う鳥で、舟守が本物のミヤコドリを見たことがなく、ユリカモメを勝手にミヤコドリと呼んでいたのだろう。
なお、東京都の鳥はユリカモメ。では、京都の鳥はミヤコドリなのか?と調べてみたら、ミヤコドリではなく、オオミズナギドリという海鳥でした。
それって、「言問橋」付近での出来事だよね?と思うでしょう? いや、実はこれ、言問橋よりもずっと上流の石浜神社のあたりでの話であったという。つまり、そのあたりに橋場があった。橋場とは桟橋、渡し船の船着き場。そもそも平安時代には隅田川には橋はかかっていませんでした。頼朝軍も、浮橋(船を並べで橋とする)で隅田川を渡った。(注・長井の渡し、となっているが、長井の渡し=橋場の渡し、と考えてよいかと。たぶん。)
江戸時代になってから隅田川にかけられた橋は、上流から、千住大橋、両国橋(大橋)、新大橋、永代橋、吾妻橋。白髭橋は、大正時代になってからようやく。
築地も豊洲もまだ海の底、たぶん鮮魚が泳いでいたのかも。頼朝一行は、泥の中ににょろっていたウナギを食べて精をつけていたのかもしれない。
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現在の山の手の台地だけが、海の上。西日暮里、上野、田端から王子、本郷から駿河台にかけて。江戸重長の本拠地、現在の江戸城前には、日比谷入り江と呼ばれる深い海が広がっていた。
中央区日本橋兜町、首都高速のジャンクションのすぐ下のあたりに兜神社がある。藤原秀郷が将門の兜を埋めたので兜神社。その後、奥州に向かう八幡太郎義家が暴風雨に逢い、海が鎮まるようにと、鎧を龍神に供えて祈ったという場所。ここはかつて海に面した河口で、こちらもまた船着き場であった。 (秋月さやか)
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