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不忍池、弁慶鏡井から奥州をめざすルートを考える   吾妻鏡の今風景44

 不忍池。国立博物館のサイトによれば、「不忍池(しのばずのいけ)は、原始時代に、上野台地と本郷(ほんごう)台地の間の入海(いりうみ)が縮小してできたとされる池です。」だそうです。池というか沼、湿地、水深は浅い。江戸時代以前は、不忍池の南に於玉ヶ池、不忍池から流れ出た忍川が、鳥越で隅田川へ注いでいた。
 不忍池へと流れ込む川は愛染川(あいぞめがわ)。藍染川の水源は王子のあたりらしい。現在、藍染川は上に蓋をかぶせた暗渠で、その上が道。くねくねと細い道は、通称ヘビ道と呼ばれているらしい。私はこの道を「愛染川」と呼んでおり、地元ではそれで通じていたが、しかし最近は、「ああ、ヘビ道のことね」と訂正されることがある。愛染川(ヘビ道)は、不忍通りの東を通っている。
 
 ある時、高校の午後の授業を抜け出して不忍池でボートに乗っていた。そこでボートから落ちた人を見た。家族4人が乗ったボート、「立ち上がっちゃだめよ」のいいつけを守らなかった幼稚園生ぐらいの女の子が池に落ち、父親らしき人が池に入って女の子をボートに引き上げた。父親らしき人は、胸下ぐらいまで泥だらけ。管理事務所には池に落ちた人のための古着が用意されているそうなので(谷中在住の同級生談)、不忍池でボートから落ちる人はそれほど珍しくはないらしい。
 


昔は白鳥じゃないボートだった。

 さて、その不忍池の近く、というか信号渡ってすぐ。東大裏門(弥生門)の横にある弁慶の井戸。正式名称は、弁慶鏡井(べんけいのかがみい)。源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけたと伝えられる井戸。


 義経は北陸廻りで奥州へ向かったんだよ、なんで弁慶の井戸なの?と、高校生の時には思ったが、それは『義経記』に記されているルートで、『吾妻鏡』には、義経一行は伊勢国、美濃国を経て東山道経由で奥州に下ったという噂が流れていたとある。
 
 文治三年(1187)二月小十日壬午 前伊豫守義顯日來隱住所々 度々遁追捕使之害訖 遂經伊勢美濃等國 赴奥州 是依恃陸奥守秀衡入道權勢也 相具妻室男女 皆假姿於山臥并兒童等云々
 →「伊予守(さきのいよのかみ)義顕(よしあき)日ごろ所々に隠れ住み、度々追捕使(ついぶし)の害を遁れ、遂に伊勢、美濃等國を經て奥州へ赴く。是、陸奥守秀衡入道の權勢を恃むに依て也。妻室男女を相具す。皆姿於山臥并びに兒童等に假ると云々。」

 義顕とは義経のこと。鎌倉は、義経を勝手に義顕に改名してしまった。相具妻室男女、(義経は)妻と男女(息子と娘)を伴っているとある。
 
 美濃国から奥州へ向かう途中で、武蔵国の「弁慶鏡井」を経由したかもしれない、ということになるが、不忍池からはどのように進んだのか? 
 不忍池を左(西)に廻って不忍通りを進んでいけば(あるいは愛染川を遡っていけば)、田端、そして王子へ。
 不忍池を右(東)から北へと廻れば、現在は日光街道4号線へと入るが、平安時代末期、そのあたりは葦葉が茂る湿地帯で、つまり道はなかった。
 日光街道を進んでいけば奥州に行くよね、と思った人、芭蕉が奥の細道をめざして向島百花園近くの庵を出立したのは、義経が奥州へと向った五百年後。平安時代の向島は入り江の浅瀬で、住んでいたのは、ハゼ、エビやカニ、トンボ、ミズスマシ、ヘビとか。

不忍池交番



交番の向かい側へと渡って弥生門をめざす手前


 
 一説には、義経一行は、船で太平洋側から奥州へ向かったとされる。たしかに船なら見つかりにくい。平安時代の船着き場としては、日本橋兜神社。そして葛西(川の向こうが行徳)。あるいは相馬御厨(下総)から香取、霞ケ浦から海へと出て鹿島灘を北上するというルートもあったらしい。不忍池から王子へ、西新井、葛西、市川真間を回って相馬御厨へと向かうこともできたのだろうか。

 かつて元服前の義経を、鞍馬寺から奥州へと連れて行ったのは金売吉次、その時には、石巻から北上川を遡って平泉へと向かったらしいが、石巻へはどうやって行ったのか。船なのか、徒歩なのか。もしも船だとするなら、香取から海に出て、鹿島灘を北上した可能性はあるのかもしれない。
 
 金売吉次は、のちに義経の郎党の堀景光となったともいわれている。掘景光は、文治二年(1186年)九月二十日、都に潜んでいたところを捕縛される。が、その後、どうなったのかがわからない。
 金売吉次の墓、という言い伝えが栃木県壬生町稲葉にある。義経が奥州へ逃亡する際に同行していた吉次が、当地で病死したという。栃木県壬生町となると、それは武蔵国から東山道をめざして奥州へと向かうルート。

 しかし、金売吉次の墓という言い伝えは白河にもあり、金売吉次は1人ではなく複数名いたのではないか、とも言われている。
 複数名、いわゆる替え玉。義経と弁慶、金売吉次他、お供たちの替え玉グループが作られていたとするなら。追手をかわしやすくなる。
「おい、聞いたか、義経さま御一行が、この前、壬生を抜けて奥州へ向かったんだと」「じゃあまだ塩原へはついていないな、よし、追いかけろ!」「いや、安宅の関を抜けたという噂だ」「なんだって? 安宅の関にも、壬生にも義経さまがいるのか、どっちが本当の義経さまなんだ?」
 義経御一行様Aは安宅の関へ、義経御一行様Bは壬生へ、義経御一行様Cは勿来へ、、、さて、どれが本物だ? となると、奥州へと入った義経が本物かどうかもわからない。


不忍通り根津交差点から言問通りで鶯谷へ。上野桜木町界隈。左の並びには和菓子、喜久月。今でもたまに買いに行きます。

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