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いざ鎌倉、源氏ゆかりの地、鎌倉   吾妻鏡の今風景11

治承四年(1180年)、旧暦十月六日、頼朝軍は、千葉常胤のアドバイスに従って、先祖ゆかりの地である鎌倉へと入る。頼朝は、由比ガ浜にあった八幡宮を現在の地へと移し、八幡宮寺(鶴岡八幡宮)の建設を開始。なによりもまず神仏のおわす場所を築かねば。都の中心は人ではなく、神仏というのが、この時代の考え方である。なお、この頃の鶴岡八幡宮は寺であった。 八幡宮寺。



由比ガ浜の八幡宮は、源頼義が前九年の役から鎌倉に戻った時に、石清水八幡宮を祀ったもので、現在の鶴岡八幡宮が建てられた以降、こちらは元八幡と称されるようになる。

材木座にある元八幡宮


八幡宮とは、もともとは八幡神を祀る社(やしろ)であり、八幡神とは応神天皇。祖霊神であり、清和源氏、桓武平氏、いずれの武家からも、「弓矢八幡」として信仰されていた。
しかし、平安時代の日本では、神が仏教に帰依して菩薩になるとする本地垂迹説が唱えられ、八幡神は八幡菩薩となる。(神が仏の弟子となり、菩薩として修行するという考え方。)
というわけで、鶴岡八幡宮は、明治の廃仏毀釈前までは寺院であり、頼朝は「南無八幡大菩薩」の旗を掲げて戦いに臨んでいた。

材木座の元八幡は由比若宮という名称であるらしい


源頼義(よりよし)、河内源氏の2代目。白河法皇の時代に房総で起った平常忠(将門の子孫)の反乱を鎮めるために、相模守として派遣される。前任者の平直方の娘を娶り、鎌倉大蔵の所領を譲りうけたところから、鎌倉が源氏ゆかりの地となる。
 
頼義は直方の娘との間に、八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の息子をもうける。義家が河内源氏の本拠地の壺井に生まれたとしている資料もあるが、南北朝時代の『詞林采葉抄』には、義家は相模国鎌倉の外祖父平直方の館で生まれたとされている。平直方の娘が、わざわざ婚家の河内源氏の本拠地まで行ってお産、というのは考えられないものね。
義家が7歳の春に山城国の石清水八幡宮で元服したことから、京の近くで育ったと考えられたのだろうが、元服までは鎌倉周辺で育ったのではないだろうか。
 
義家の孫の義朝もまた東国に下り、曽祖父ゆかりの鎌倉の亀ヶ谷(かめがやつ)に館(亀谷殿)を築いた。そこは今、寿福寺。(注・寿福寺の住所は扇ヶ谷(おうぎがやつ)で、亀谷殿なのに亀ヶ谷ではない?と、紛らわしい場所。紀伊国屋スーパーの前の道を線路沿いに北へと向かったところ、といえばわかりやすか。
 

この先、海蔵寺まで行くと行き止まり。夕暮れなのでこのあたりで引き返そう。

義朝は地元の豪族との繋がりを強め、長男義平(悪源太義平)の母は三浦氏。次男朝長(松田冠者)の母は波多野氏。
 
鎌倉周辺はまた、良文流平氏の子孫の住む場所でもあった。
良文→忠光(ただみつ)→平忠通(ただみち)→鎌倉章名(あきもり)
良文→忠光(ただみつ)→平忠通(ただみち)→三浦為通(ためみち)

ここが亀谷殿であったらしい

章名(あきもり)は鎌倉に住んでいたので鎌倉氏を名乗り、丸子氏の婿でもあった。為通は頼義より三浦の地を与えられ三浦氏となる。章名の孫の景正(鎌倉権五郎)は義家に仕えた。御霊神社は、鎌倉権五郎を祀った神社。

一方では・・・
良文→忠光(ただみつ)→平忠通(ただみち)→景通(かげみち)→梶原景久→梶原影長→梶原影清→梶原景時
良文→忠光(ただみつ)→平忠通(ただみち)→鎌倉章名(あきもり)→影村(かげむら)→影明(かげあき)→大庭影宗 →大庭景親
なんと。梶原景時も、大庭景親も、良文の子孫ではないですか! 

もともと八幡宮の鳥居はこのあたりで、海がすぐそこまで来ていたらしい


ところで。鎌倉はなぜ鎌倉なのか。鎌とは竈(かまど)、あるいは半円の鎌形。倉は山。つまり、東、西、北の三方を山で囲まれ、南が海となって開いている地形が、半円の竈(かまど)のようであるので、「鎌倉」となったとする。東、西、北は山で守られ、容易に鎌倉に攻め込むことはできない。

寿福寺の先、この踏切を渡って行くと亀ヶ谷の切通

頼朝の鎌倉入りは、どこからであったのか。もっとも古くからあった切通が化粧坂であったらしい。あるいは、亀ヶ谷切通からであったという説もあるが、いずれにしろ、細い山道を進んで鎌倉へと入る。馬一頭がやっと通れるぐらいの。攻め込むことができるのは南側の海からだけ。

では、三浦はなぜ三浦なのか。これは東、西、南の三方を海(浦)に囲まれていることから。北の山側(葉山、横須賀)から三浦へと攻め込むのは難しく、海からの上陸も容易ではなかった。鎌倉と三浦は、セットで考えてこそ、最大の防御力を発揮できる地形であったといえる。   (秋月さやか)

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