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葛西氏の館跡は、下総国葛飾郡、トラック走る環七沿い 吾妻鏡の今風景37

 東日本橋から地下鉄に乗って京成押上線の青砥駅で降りる。
 青砥は駅の名前、でも地名は青戸。青は水、戸は入口の意味、つまり水の入り口となる場所。駅の近くを中川が流れている。が、平安時代に中川はなかった。墨田区、葛飾区、江東区のあたりはすべて湿地で海が入り込む汽水域で、ところどころ、土砂が積もった小高い場所に集落があったという。上流で雨が降れば川は氾濫し、湿地が水没する。氾濫の危険のある流域に暮らすには船が欠かせなかったに違いない。

 私はかつて足立区に20年近く暮らしていて、堀切菖蒲園にも向島百花園にもよく行った。今でもたまに行く。が、青砥に行ったことはまだない。青砥には友人がいなかったので。京成押上線に乗るのもたぶんはじめて。はじめて乗った京成押上線、はじめて降りる青砥駅。

 
そして轟轟とトラックの音が鳴り響く環七沿いを、国道6号線と環七の交差点近く、「葛西城跡」まで歩く。葛西城といっても、葛西臨海公園にあるわけではなく、環七を亀有方向に向う。青砥陸橋よりも手前に出てくる緑地が葛西城跡。
 
 6月の芒種の頃、夏至になるにはあと半月ほどあるが、陽射しはすでにまぶしい。途中、こち亀の両さんが描かれたポスター。葛飾区だから。しかし、平安時代末期、ここは下総国であった。墨田川より東は下総国。墨田川というか入間川(荒川と呼ばれていたが、墨田川上流)の東側は下総国であるので、葛飾区だけでなく、足立区北千住も下総国。西新井も下総国。竹ノ塚の氷川神社は、もともとは千葉氏の陣屋跡で妙見社であったという。葛西は、湿地と海に囲まれた下総国のはしっこ。

 太日川(江戸川)の右岸が葛西、左岸が葛東、あわせて下総国の葛飾郡(葛餝郡)。平安時代より前、すでに葛西に集落があり、柴又にも人が住んでおり、遺跡が発掘されている。
 『浦安町誌上』によれば、保元二年(1157年)の記録に、浦安の集落で人々は塩を焼き、魚介類をとり、田畑を耕して暮らしていた。米を作り、土器を焼いていた跡があるらしい。魚介類は何が採れたのか。夏ならガザミ、キス、ハゼ。コハダ、イカ、アジ、スズキ、タコ、シャコ。すなわち江戸前の魚たち。
 汽水域ではウナギも採れたに違いない。ウナギを今のような蒲焼にするのは江戸時代に入ってから、平安の頃にはウナギをそのまま串にさして焼いたものを蒲焼と呼んでいた。開いて蒸したりはしない。丸のままのウナギを串刺しにし、醤油はまだなかったので、たぶん塩焼き。
 
 葛西清重(かさいきよしげ)は、豊島清元の三男で、下総国葛西御厨を相続して葛西三郎清重と名乗った。
 治承四年、安房国から墨田川へと進軍した頼朝のもとに、豊島清元、葛西清重父子が参じる。
 墨田川の陣(墨田宿)はたぶん鐘ヶ淵のあたり、といっても当時はまだ鐘ヶ淵という地名で呼ばれていたわけではないが(まだ鐘は沈んでなかったので。)といっても、墨田川の流れが曲がるこのあたりを、曲(かね)が淵と呼んでいたという説もあるらしい。
 とにかく墨田川の東なので下総国。葛西城(青戸)からは荒川放水路を渡らなくては鐘ヶ淵には行けない…いや、平安時代は、荒川放水路はなかったので、川を渡る必要はなく、墨田宿(鐘ヶ淵)にいちばん近いところにあったのが葛西城であったことになる。
 
 頼朝は、武蔵国の江戸郷(たぶん神田から日比谷、四谷にかけての一帯、この当時、丸の内、銀座は海の底であった)を治めていた江戸重長に、自分のもとに来るように、と書状を送っていたが、無視されていた。

 頼朝軍はこのあと、長井の渡し(橋場の渡しのことらしい)を渡ろうとするが、水かさが増していて、なかなか渡れない。

江戸重長は、葛西清重の説得によって頼朝に従い、頼朝は浮橋によって、隅田川を渡ったとある。
十月四日に畠山重忠(はたけやましげただ)が参じたのか、それとも、畠山重忠が参じる前に江戸重長と話がついたのかどうかもよくわからない。

が、とにかく頼朝はその後、滝野川に陣を移す。北区滝野川。なるほど、環七を通って鹿浜を越えて行けばすぐに着く…というわけにはいきません。当時、環七はまだなかった。

 後年、隠居した葛西三郎清重は葛飾区四つ木に住む。そこに親鸞聖人が立ち寄り、親鸞聖人に帰依した清重は、隠居所を西光寺とした。四つ木は、京成線では青砥よりも1つ東日本橋寄り。今では荒川放水路の土手の近く。







鐘ヶ淵付近の墨田川



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