義経の妻妾たち 義経の最愛の女(ひと)は誰? 吾妻鏡の今風景32
京の堀川館には、白拍子の静、義経の正室の川越の娘の郷、さらに、平時忠の娘、蕨。
義経の妻妾として名が伝わるのは、静、郷、蕨の3人。しかし都の公家が、義経のところに娘を送ってよこさないわけがないので、あと数人ぐらいはいたのだろう。一説には義経は京で24人の女性と関係があったといわれ、これはかなり盛った話だとしても、とにかく3人だけだったとは考えにくい。
この3人以外に、義経と恋人関係にあったとされるのが皆鶴(みなづる)。
皆鶴は陰陽師の鬼一法眼の娘。鬼一法眼は『六韜』という兵法の大家で、鞍馬寺の稚児であった牛若丸(義経)が弟子入りを志願するが断られる。牛若丸は鬼一の娘の皆鶴を誘惑して兵法書を盗み出させ、京を去る。皆鶴は、義経のあとを追って奥州へと向かうが、おいつけるはずもなく、会津若松の沼に身を投げたとか、一関市室根町で亡くなったとか。つまり皆鶴は義経の最初の恋人ということになるのだが、はたして恋人といっていいのかどうなのか。
鞍馬山を出た義経が平泉に向かったのが1174年、16歳。義経はそれから6年間を奥州平泉で過ごすが、平泉時代には浮いた話はない。
義仲が去った京に義経が入り、(おそらく元暦元年の夏に)日照りが続き、後白河法皇が神泉苑の池で100人の僧に読経させたが雨は降らなかった。そこで100人の白拍子を集めて一人ずつ舞わせ、祈雨を行う。99人まで効験がなかったが、最後に静が舞うと黒雲がおこり、それから3日間雨が降り続いた。どうやら白拍子は祈雨も行っていたらしい。当時の白拍子は、いってみればアイドル。静の母親の磯野禅尼は、自身も若い頃は白拍子で、娘の静のマネージャー役であった。義経は住吉(たぶん京都醒ヶ井の住吉神社)での雨乞いで静を見初め妾にしたとされるが、それは後白河法皇の計らいだったのではないか。つまり、静の後ろ盾は後白河法皇。
義経の正室は河越太郎重頼の娘、郷(さと)。母は源頼朝の乳母である比企尼の次女(河越尼)で、元暦元年(1184年)九月十四日、京に上って義経に嫁ぐ。義経が無断任官によって頼朝の怒りを買い、平氏追討を外された直後のことだから、静を妾にしたすぐあと。郷の後ろ盾は比企一族(鎌倉)である。
そして壇ノ浦での平氏滅亡後、平時忠は、その娘の蕨を義経に嫁がせて義経と縁続きになる。鎌倉では義経が平家との繋がりを持ったことを警戒していた。
頼朝は父の義朝の法要の後、義経討伐のために京をめざす。
義経は、頼朝上洛の噂を聞いて、京から脱出。『平家物語』によれば、摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船で九州をめざした。
蕨は同行していない。郷は懐妊していたので京に残った。静は同行した。静以外にも、義経に同行した女たちは(何名ほどいたのかわからないが)、公家が送ってきた娘たちなのか、それとも屋敷の下働きで行先のない女たちであったのか。が、暴風のために船は摂津に押し戻されて難破。義経は女たちを海岸に置きざりにしたとある。義経が吉野に身を隠すにあたって連れて行ったのは静だけ、というより、静だけがついていった、というべきなのだろう。
しかし、のちに奥州に赴いて義経とともにその生涯を終えたのは河越の娘、郷であった。
なお、義経と郷の息子は、衣川で命を落としたという記録がなく、密かに、奥州合戦で活躍した中村常陸入道念西の長男の為宗の子として育てられたという言い伝えがある。
静に関しては、義経との間の男子を鎌倉で出産後、義経を追って奥州に赴く途中で亡くなったと言い伝えられ、静の最期の地が日本各地にある。
義経は女にはあまり執着がなかった人なのではないだろうか。きゃ~義経さま~と来られたなら、むげにはしない。来るものは拒まず、去るものは追わず。たぶん女に不自由したことなんてなかっただろうから、自分から誰かを愛することはなかった人なのかもしれない。