人馬一体、あふれる馬愛と武将たち 吾妻鏡の今風景35
人馬一体、といっても射手座(注・サテュロスのクロトス)ではない。武者と馬がまるで一体になったかのように、馬が乗り手の思うままに動くことをいい、これが騎馬武者の理想であるとする。
畠山重忠の愛馬「三日月」。
一の谷の背後の崖を駆け下りるよう義経に命令された重忠が、大事な馬が足を折ってはいけないと、担いで降りた、という伝説の馬。ちょっと違う意味での人馬一体。
しかし、銅像になっているこの馬は、三日月ではありません。だってこれ、サラブレッドでしょう? 昔の馬は木曽馬で、サラブレッドよりも小柄。サラブレッドは450㎏ぐらいあるが、木曽馬は350㎏ぐらい、ポニーよりも大きいという感じだそうです。としても、350㎏。つまり、大の男(70㎏の人)5人を背負って、崖を降りられるのか、という問題。現代のべンチプレスで500㎏を持ち上げた話はあるので、350㎏を背負うのは不可能ではないのかもしれませんが…?!
大型犬を持ち上げるのだって大変なのよ。我が家のかつての愛犬(ゴールデンレトリーバー)40㎏、一頭持ちあげるのがやっと、これを9頭なんて、どう考えても無理。
熊谷直実の愛馬、「権田栗毛」も一の谷で活躍。
名馬の産地である倉渕村権田へ家来をやって見つけてきたという、名馬中の名馬。しかし権田栗毛は一の谷の戦いで負傷し、熊谷に戻ったが傷は癒えず、直実は母衣を包帯代わりに馬の首に巻いて、生まれ故郷に帰るが良い、といって馬を放してやる。(あ、馬捨てはダメですよ~。)
権田栗毛は、長旅の末に倉渕村権田にたどり着いたが、生家はすでになく。帰る家がない権田栗毛は今度は熊谷をめざして歩き始めるが、首の傷の悪化と疲労で、生き斃れてしまう。権田栗毛終焉の地に、洞(ほこら)が建っている。これがR406沿い、道の駅くらぶちの近くになる。
義経の愛馬は、奥州の藤原秀衡より贈られた馬、「薄墨」。
この馬はのちに大夫黒と呼ばれるようになる。義経が検非違使少尉(左衛門尉)となり、その役職が大夫と別称されたことから、大夫様が乗っている黒い馬として「大夫黒」と呼ばれるわけだが、しかし、義経が後白河法皇に任官されて左衛門尉になったのは、一の谷のあとのことなので、一の谷の時には、まだ薄墨という名前であったはず。「うすずみ」と呼ばれて育った馬を、途中から「たゆうぐろ」と別の名前を呼んでも、反応しないとは思いますが。(いくら馬が賢くとも。)
で、義経愛馬の写真はございません。伊王野とかにはあるのでしょうか。
木曽義仲、そもそも幼名が駒王丸。信濃国に逃れて育った駒王丸であるが、信濃国は木曽馬の産地。駒王丸も幼少時から馬に親しんで育つ。が、ある時、愛馬が狼に食い殺されてしまうという事件が起こり、それに怒った駒王丸、狼に報復。食いちぎられた愛馬の死体の中に身を隠し、夜、馬の死体の残りを食いに来た狼を退治したのである。駒王丸、数え七歳の出来事。
のちに義仲が乗った馬は、義仲の言葉を理解し、命令通りに行動するという、まさに理想の馬で、その脚力は素晴らしかった。その名前は伝わっていないが、つまりは、フェラーリ(跳ね馬)。
ある時、義仲は、木曽川の谷を飛ぶように馬(フェラーリ)に命令する。この谷の幅は73間(約132.7m)ある、義仲がそう馬に告げると、馬(フェラーリ)はその言葉を理解して谷を飛んだ。が、飛距離が足りず、木曽川の谷底に転落。あわれ、馬(フェラーリ)は落命。義仲は一命をとりとめるが、あれほど優れた脚力の馬であったのに力及ばなかったか、と馬を惜しみながらも、谷の距離を測ってみると75間(約136.3m)あった。(注・一説には74間) つまり義仲が距離を間違ったわけで、馬(フェラーリ)は、義仲のいうとおり73間を飛び、2間(約3.6m)の距離が足りずに谷底に転落したということになる。義仲は己を恥じ、愛馬の霊を慰めるために観音像を安置した。これが、沓掛観音堂の由来であるとする。
三浦義澄(よしずみ)の若い頃の愛馬は「髪不擦」(かみなでず)。タテガミに触るべからずという、たいへんにわかりやすい名前で、主人以外がタテガミに触れると、蹴りあげ、嚙みつき、怒って暴れたという。「髪不擦」は、養和元年(1181年)、頼朝に献上され、以後は鎌倉で過ごしたが、果たして義澄以外に、「髪不擦」(かみなでず)に乗ることのできた人がいたのかどうかは、不明。
三浦の馬の写真もないです。今度、三浦に行ったら探してみよう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?