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「後三年の役」の地と、後三年駅 吾妻鏡の今風景47

 私事ですが。30年以上続けていた仕事(デジタルコンテンツ販売サイトの運営)が終了いたしました。理由は決済システム側の提供終了。30年以上、思えば長かった。30年って、土星一巡りだよなあ、と。サイト閉鎖の準備をし、契約書を片づけながら、思わず振り返ってしまったよね、30年間。
 
 せっかくだからどこかへ旅をしよう、ということになり、家人がどこへ行きたいかと問うので、後三年駅へ行こう、と。駅?役の間違いだろ? そう「後三年の役」。でも後三年駅。

 それはどこにあるのかというと、奥羽本線、横手駅の1つ先の駅。
 前九年の役の地は盛岡、安倍氏の本拠地で起こった。しかし後三年の役は、清原氏の本拠地の出羽で発生。その後三年の役の発生地、最寄駅が後三年駅となる。

ここが後三年駅。スイカ使えません。




 「後三年の役」は、奥州十二年合戦(前九年の役)ののちに発生した奥州清原氏の壮絶な身内争いで、永保三年(1083年)に起こった。前九年の役の終結、つまり康平五年九月十七日(1062年9月22日)から21年め、前九年の役がはじまった時からは30年ほどたっている。前九年の役(注・9年では終わらず、奥州十二年合戦と呼ぶべきだとは思いますが)と、その間の経緯、そして後三年の役を合わせて、これはもう、奥州30年戦争とでも呼んだほうがわかりやすいのではないだろうか。

 前九年当時の清原氏の当主は光頼であったが、これを弟の武則(前九年の役の清原氏の総大将)が継ぎ、その息子の武貞へ、永保三年には、武貞の嫡子の真衡へと代替わりしていた。初代がその前から受け継いできた家業を事業化し、軌道に乗ってきて次代に継承、そこから数えると、30年めは3代目の力が試される頃合いとなる。

 30年前のデジタルコンテンツサイトというのは、いわゆるパソ通のサイト。テキストサービスだけ、といっても、今現在のメールとあまり変わらないのですが。
 1990年代、ガラケーもあったとは思うけれど、私は持っていなかった。だって、通話しかできず、テザリングできるわけではなかったので。
 旅行先では、モジュラージャックを使って電話回線でPCを繋げてメールを送っていた。遠方へ旅行した時に公衆電話を探したらモジュラージャックがなく、(そんなこともあろうかと準備していった)音響カプラーで接続。10円玉が流れるように落ちていき、メール1通送るのに、250枚ほど消えました。(注・10円玉を300枚用意していったのですが。)

 武貞は、前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力メンバーであった藤原経清を処刑し、その妻である有加一乃末陪(ありかいちのまえ)を妻とした。有加一乃末陪は安倍頼時の娘、藤原経清は、源頼義の弟の源頼清の陸奥守赴任に伴って当地にやってきた官人、亘理郡を支配した人物であるという。
 経清と有加一乃末陪との間に生まれた息子は連れ子として武貞の養子となり、清衡を名乗った。さらにその後、武貞と有加一乃末陪の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれる。
 武貞にはすでに真衡(さねひら)という息子がおり、清衡、家衡とは母違いの兄。武貞の息子たち、真衡、清衡、家衡、清原三兄弟。
 長男の真衡が、清原氏の惣領となる。しかし真衡には息子ができなかったようで(娘はいたらしい)養子を迎えた。この養子がいわきにいた海道小太郎という男子で、成衡と名乗る。

 その成衡が源頼義の娘を娶る。この女性は筑波にいた多気権守平宗基の娘と頼義との間の娘であるとされる。
 頼義が陸奥守として最初に赴任したのは永承(1051年)頃。もしもその時、頼義と筑波の多気氏の娘との間にできた娘であるなら、永保三年(1083年)には数え三十三歳? (ということになるかとは思いますが。)

 とにかくこの2人の婚儀の席に、真衡の叔父にあたる吉彦秀武(きみこのひでたけ)が祝いの品(盆にのせた砂金)を持ってやってきた。が、真衡は碁に夢中になって(なっているふりをして)、秀武を無視。無視された秀武は砂金をぶちまけて席を立つ。そしてその後、両者の戦いに突入。

 そこへ陸奥守として赴任してきたのが義家。すでに、頼義パパはこの世を去っており、義家も50代後半、もう若いとはいえない年齢になっていた。
 真衡はその義家を味方につけて、家衡、清衡に圧勝。しかし勝利の余韻もつかの間、真衡は病で急死してしまう。なぜ?毒殺?それとも暗殺、もしかして呪詛?
 
 真衡なきあと、義家が間に入って家衡と清衡に土地を分配した。とまあここまでが、後三年の役の前半なのでありました。



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