「雁行の乱れ」と雁鍋? 金沢柵西沼、平安の風渡る公園にて 吾妻鏡の今風景48
応徳三年(1086年)、家衡は清衡の館を襲撃、清衡の妻子を滅ぼす。(注・館は奥州にあった。)
清衡は逃げ延び、義家の助けを求めて家衡を攻める。
家衡は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)にたてこもる。季節は冬、その寒さと雪に阻まれ、清衡&義家連合軍はいったんは敗れた。
翌年、寛治元年(1087年)七月、朝廷は、この戦は清原氏の内紛なので、関わるでない、「奥州合戦停止」を伝える官使がやってくる。しかし義家は無視。義家は年若いころから奥州に関わっているので、いまさら、知らん顔はできない、といったところだったのか。さらには義家の弟、義光が義家のもとに駆けつける。
一方、家衡は、叔父にあたる清原武衡のすすめで、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移った。
義家は、軍勢を率いて金沢柵に向かった。秋九月。秋九月とは、戌月、二十四節気寒露初候、「鴻雁来(こうがんきたる)」は、現在のグレゴリオ暦でいうなら10/8頃~10/13頃。
西沼のあたりを進んでいると、雁の一団が空を渡っていくのが見えた。と、雁は突然、陣形を崩して四方に散った。義家はこれを見て、伏兵がいると察し、兵たちを身構えさせる。はたして草むらの中より三十騎ばかりの敵兵が襲ってきたのをことごとく滅ぼす。これが「雁行の乱れ」のエピソード。
西沼とはどこかといえば、金沢柵近くの沼地。現在は平安の風渡る公園となって立派な橋がかかっております。
雁(がん)、もしくは雁(かり)。冬鳥として日本に飛来する渡り鳥。渡りの時には、グループになり、リーダーが先頭になって隊列を作って飛ぶ性質がある。これが雁行。地上を俯瞰して飛ぶ鳥たちが、その隊列を乱したなら、地上に何かがいることを発見したからで、それが「雁行の乱れ」。
「戦ばかりでなく、書にて兵法を学んだからこそ、伏兵に気づくことができた」、と語った義家の兵法の師は、大江匡房(おおえのまさふさ)であった。
かつて前九年の戦ののちに京へとのぼった義家が、宇治殿(藤原頼通のこと)に参じた時に奥州での戦いの話をしていると、それを耳にした大江匡房が、「武者の器量はあるようだが、合戦の道(兵法)を知らぬな」と、独り言を言った。(史実に従うなら大江匡房は義家よりも年下なのですが)、義家の家来たちがこれを聞き、義家に告げ口をした。家来たちは、義家が大江匡房のこの発言に怒る、と思ったのかもしれない。しかし義家は、大江匡房のところへ行き、丁寧に会釈をして教えを乞い、兵法を教わった、とされる。百人一首では権中納言匡房。
え~っ、どんな歌でしたでしょうか、と調べてみたら。
「高砂の 尾(を)の上(へ)の桜 咲きにけり
外山(とやま)の霞(かすみ) たたずもあらなむ」
そういえば、高校時代に百人一首を覚えなくてはならず、歌の印象が薄くてなかなか覚えられないので、高砂といえば、あの高砂(じいさんばあさんの人形)しか思い浮かばない私は、「高砂やこの浦舟に帆を上げて・・・富山湾の蜃気楼」と、この歌を覚えたのでした。(とりあえず、上の句と下の句を繋げようということで)、あああ、桜も咲いていたのですね、そして、富山じゃなくて外山だ。高砂人形はない。不真面目な生徒でした、ごめんなさい。
大江匡房(おおえのまさふさ)の曽祖母(ひいばあさん)が赤染衛門。大江広元は曾孫にあたる。
(注・孫子にあるのは「鳥起(た)つは伏なり、獣駭(おどろ)くは覆なり」)
雁(かり)は、古い時代には食用とされていたそうなので、かつては雁鍋も食されていた。(個体数の減少から、1970年以降は狩猟が禁じられた。)
雁よりも小さいのが鴨で、こちらは今でも冬の味覚で、葱や芹を入れて鴨鍋ですが、これが平安時代には雁鍋だったわけで。
この戦いで苦戦した義家軍も、雁を捕まえて食べていたのではないか、と。
もしかして雁の隊列が乱れたのは、伏兵がいたから以前に、義家軍を見かけたからではないのか、、、(わ、食われる!)と雁がびっくりして隊列を乱したからではないか、などと想像してしまったりして。