困難な時代を生き抜く〜社史編纂から見た地域や産業の変化と中小企業(2)北関東編
あなたが抱く100年続いた企業のイメージは
「100年続いた企業」というと、どのようなイメージが思い浮かぶだろうか。そろそろ老舗の範疇の入り口に入り、「この道ひと筋に100年」という印象を抱く方も少なくないであろう。
今回紹介するT社は、そうした印象とは180度異なって、社会や産業の変化を真正面から受け止め、繊維の加工→軍服の生地づくり→靴下製造→紳士服地→分譲住宅の建築販売→大手ハウスメーカーの代理店→注文健康住宅の建築販売と業種を変えて、100年を迎えた。
winding road(曲がり道)を歩んだ100年
コロナ禍に見舞われる数年前、北関東のある都市を本拠地とする中小企業から創業100年記念誌の制作依頼が私にあった。
三代目の経営者となる会長のご夫妻から取材で4回ほどお話をおうかがいし、関連資料に目を通し、1921(大正9)年以来の会社の歴史をまとめると、そこには歴代の経営者が予想できない時代の変化に直面し大きなダメージを受けても、そのたびに業種を変えながら生き延びてきた会社の歴史が存在した。
株取引の失敗で田畑をなくしたことから始まった
今から100年あまり前の大正時代、初代は農家を営んでいたが、株取引に失敗し、先祖から引き継いだ田畑を手放すことになった。
当時は株や商品取引に手を出してこうした目に遭うことは珍しくなかった。たとえばパナソニックの創業者であり、「経営の神さま」と呼ばれた松下幸之助は和歌山の使用人が何人もいる地主の息子として生まれたが、父親が米相場に手を出して失敗し、それがきっかけとなって一家は離散し、小学校を中退し、9歳で丁稚奉公に出されるところから社会人生活をスタートしている。
T社の初代もやはり相場で失敗したひとりであった。失敗したからと言っても家族は生活していかなくてはならない。いまのように就職情報誌などはなく、職は親戚や知り合いに頼るしか道はなかった。初代は親戚が営む銘仙(めいせん)の織物工場に職を求めた。
銘仙とは絹織物の一種で関東の養蚕・絹織物地帯で作られ、大正から昭和の初期にかけて大流行した。
また人手のいる労働集約型の工場が担う近代の繊維産業が産業革命のイギリスで勃興し、やがてアメリカに移り、その後、日本、中国、東南アジアと主要な生産地を移してきたが、当時はその波が日本に訪れた時期でもあった。
初代は親戚の織物工場で働き、やがて独立して、土地を借りて請負で撚糸(ねんし)の仕事を始めた。1921(大正9)年のことであった。
軍需景気で地場産業の一隅を占める
やがて時代は昭和へと変わり、1928(昭和3)年になると満州事変が起こり、1932(昭和7)年に満州国が建国され、日中戦争へ進もうとしていた。
地域に連隊の本拠地があったこともあって初代は撚糸(ねんし)の仕事から、思いきって軍服用毛織生地の生産へ業種転換を決断した。
軍部の台頭にともなって、軍需景気で大量の注文を受け、工場は大忙しとなった。その結果、借りていた土地を買い取って、その隣に入母屋づくりの家を建てることができた。先祖伝来の田畑を手放すという大きな試練から立ち直り、地場産業の織物業の一隅を占めるようになった。
それは、初代にとって家の復興という意味も持っていた。
戦禍で工場を焼失し、敗戦で得意先はもういない
業績は順調に伸び、初代はこのまま行けば、自分の長男が後を継いで、事業のさらなる発展が望めると安堵した。しかし、その希望はまもなく打ち砕かれる。
長男に徴集礼状が届き、戦地に赴くことになった。
それからまもなく戦況が悪化し、工場は米軍機による空襲で消失してしまう。会社は休業に追い込まれた。
終戦を迎え、やがて長男が戻ってきた。会社は帰還した長男を迎え再開した。しかし、もう軍の需要はない。目をつけたのは靴下の製造販売だった。
戦後の混乱のなかで、人々は最低限の衣食住の確保が当面の暮らしの目的だった。そうしたなか、靴下は穴が空けばつくろったり、そのまま掃いていたりするのが一般的であったが、その穴も大きくなったり、数が増えれば新しいものを買うよりなかった。
二代目の長男は、そこに目をつけて、中古の編み機を買い、靴下の製造販売を始めた。直接、話をお聞きした現会長は、小学生のときに父である二代目に同行して営業したときの話を懐かしく、私に語った。
靴下製造から紳士服地の生産へ
日本は戦後の混乱期から脱し、経済はじょじょに回復していった。1950年の朝鮮戦争を機に「ガチャマン景気」あるいは「糸へん景気」といわれ、「繊維」「紡績」業界が好景気の象徴とされた。「ガチャ万景気」とは織機をガチャンと織れば万の金が儲かるところからの言葉だ。
人々はその日暮らしから安心して定職を得られる時代になっていき男性は背広(当時は多くの人がスーツのことをそう呼んでいた)を必要とする。そうした変化を受けて、T社は靴下の製造から紳士服地の生産へと乗り出す。大手の紳士服メーカーの指定工場となり、時代の風を受けながら昼夜交代で生産し、事業は拡大していった。
そして日本は高度成長期に入っていった。
斜陽産業になり、廃業の検討も
しかしその好調も長くは続かなかった。
高度経済成長期が終わり、長らく輸出の基幹産業であった繊維産業は、国内産業構造の変化や国際的な変動相場制の導入による急激な円高によって衰退を迎えた。日本の輸出産業の主役は自動車産業や家電など電気製品へと移っていった。
当時、大学卒業後、東京の通信会社で勤務していた現会長は、二代目の父から会社に戻ることを打診されて、T社に入社する。
現会長は、高校時代に生産や販売を手伝っていたこともあって、営業に力を入れれば何とか業績回復ができると思っていたが、経営環境は予想以上に厳しく、業績の下降を止めることはできなかった。
状況に窮した初代、二代目、三代目とそれぞれの夫人が集まり、今度のことについて何度か話し合った。話のなかには、会社を廃業し、二代目や三代目の新たな就職口を探すことが話題に上るまでになっていた。
決意を固めさせた奥さんのことば
話し合いを重ねるうちに、二代目の高校時代の同級生から声がかかった。同級生はいまや建設業を経営し、自分が全面的に支援するから、この際、思い切って建設業をやってみないかという話だった。
当時、全国各地で開発ブームが訪れ、それにともなって建設業は活況を呈していた。北関東もそうしたブームの中にあった。
しかしT社にとって建設業はまったく未経験の分野だった。現会長は取材で当時のことを「父の友人という心強い支援者はあったが、不安だった」とそのときの気持ちを正直に語った。
その揺らぐ気持ちを固めたのは奥さんのことばだった。
「万一建設で失敗したら、あなたはトラックの運転手になり、私は助手をつとめますから、一生懸命やりましょう」。現会長は「家内のこの言葉は心強かった」とふり返った。
建設業への進出を決断すると、現会長夫妻は二人そろって建設業に必要な宅地建物取引主任者(宅建)の資格を取るために猛勉強し、みごと一緒に合格した。
あとがなくなったT社では、大学生だった現会長の弟もいったん休学し、会社を手伝うことになった。家族を挙げてのあと戻りできない取り組みが始まった。
住宅ブームの波に乗る
開発ブームは分譲住宅のブームでもあった。T社は、開発用の土地を購入して造成し、分譲住宅を建てて販売する事業を展開し、業績は拡大していった。
その頃は農山村から大勢の人が都市へ就職し、はじめは賃貸住宅に暮らし、やがてお金を貯めて戸建ての住宅を購入する。そうした巨大な需要に応えるため「安かろう、悪かろう」という住宅を提供する業者もあった。
そうした風潮を二代目である現会長の父は嘆いていた。「住宅は二十年、三十年と、家族がともに生活をする場だ。安かろう悪かろうという商売はお客さまのためにもならないし、決して長続きしない。うちの会社は、ただでさえ後発のハンディキャップがあるのだし、納期遵守、品質重視でいく」と、目先の利益を追わない方針を貫いた。業績の拡大は、こうした姿勢が評価を得ていったことにもあった。
大手FCに加盟して最新のデザインや技法を学ぶ
1980年代に入ると、T社はさらなる事業拡大を目指して、大手ハウスメーカーの代理店になることにした。代理店になれば、自社だけでは得られない大手メーカーの洗練された設計思想やデザインコンセプト、最新工法を手に入れることができるのが理由だった。
代理店になってみると、同業である全国の代理店との交流で人脈が広がり、各地の現場の最新動向を入手できることも魅力だった。
しかしひととおり勝手がわかると、新しい課題が浮かびあがってきた。商品開発や社員教育がメーカー任せになったり、売上の拡大にはつながったが、利益の拡大はそれほどには多くはなかったりしたこともはっきりしてきた。
次のステージに移るときだった。
取引のある金融機関や経営コンサルタントのアドバイスや指導を受けて代理店契約を更新しないことにし、自社での注文住宅の建築に戻ることにした。日本はバブル景気を迎えて、会社の業績は拡大していった。
窮地を救った「健康住宅」
やがてバブル景気が崩壊し、その影響はT社の業績を急激に悪化させた。このままでは、また窮してしまう。三代目となっていた現会長は同業他社30社を訪問して業績復活のヒントをさぐったり、新しい成長の芽はないかと探したりした。
そうしたなかで「健康住宅」(健康や環境を重視した住宅)が新しい話題になっているのを知った。さっそく足を運んで見学し、今後の自社が目指すのは「これだ!」と確信した。
すでにT社で働いていた現会長の長男が「健康住宅」導入推進の先頭に立った。開発・設計を担当し、積極的な営業に乗り出していった。
「健康住宅」を前面に打ち出した注文住宅は次第に浸透し、評価を得て、受注実績は伸びていき、会社は再び成長軌道に乗った。
100年間、変わらなかったこと
新しい姿となったT社を支えるのは「健康」とともに「地域」という言葉だった。そのときどきに業態を変えてきたT社であったが、会社が存在する場所は変わっていない。
その頃、現会長の長男と、会社の同世代の若い幹部が中心となって年に数回「T社祭り」を開催することにした。祭りでは餅つきなど季節の行事に合わせ、地元の家族が参加して楽しめるイベントが行われ、その一角に住宅のリフォームや空き家問題などの住宅相談コーナーを設けている。目の前の受注だけを目指さない祭りは、いまでは地域に密着した恒例のイベントとして定着している。
健康住宅と地域へのさらなる定着を果たした現会長の長男は、2014年に四代目経営者となり、2021年に創業100周年を迎えた。
変わらなかった、もうひとつのこと
100年経営の歴史には、戦争や大災害などといったことに加えて、産業の変化や消費者のライフスタイルによって、何度も事業に陰りが出て、試練に遭遇している。
そのとき思いきった事業転換や新しい商品開発などを選択して、新たな道筋を見つけて、それに相応しい人材や組織づくりに向かっていく決断とエネルギーが求められてきた。
その決断とエネルギーこそが、コロナ禍やウクライナの紛争で先が見えない今、多くの中小企業や、私たちひとりひとりに求められているものではないだろうか。