〈Artな心理〉緘黙症〜喋らないから、知的障害児施設なの?in パリ
「普通」であるということは、
どのようにズレてしまっても、
時間とともに、
木の幹の内側、いわゆる、
みんなで共有する幹に戻れること、と
以前、発達障害①の記事に掲載した。
でも、「普通」という概念は、
国や社会の習慣によって違う。
その社会の中で、常識とされている、
想像でき得る反応や想定内の考えを
共有できること。
わざわざ取り決めをしなくても、
多数派の価値観や感受性により、
決まっていくものであろう。
パリ郊外の知的障害児施設で
音楽療法士をしていた時、
往々にして、グレーゾーンの児童が、
お試しのため、クラスに入ってきた。
ある日、7歳の男の子がやってきた。
フランスでの「普通」は、
積極性がある子供である。
その男の子は、少し恥ずかしがり屋だった。
でも私は、この子が「普通」でないとすれば、
日本の子供がフランスにいたら、
かなりの割合で施設に入るのか?
と思ってしまった。
そのくらい「普通」の子供だった。
私のいたこの施設は、
知的の障害がある児童が通所していた。
この男の子は、全緘黙(ぜんかんもく)のような
傾向が見られた。
全緘黙は、どういう時にも話せない状況に
陥っていること、症状があることで、
場面緘黙、(選択性緘黙)は、親とは話せるが、
学校では話せないなど、その場や環境によって、
話せないことである。
男の子は、誰にも声を出すことをしなかったため、
親が心配し、医師が検査をし、
知的な問題かと考えられたようだった。
この施設では、8時に朝の給食を一緒に食べる。
朝食後まもなく、
男の子は、この施設の心理師たちによって、
彼に関する判断が新たにされた。
また同施設の精神科医によっても診断された。
男の子の通所は、当日15時で打ち切られ、
まずは普通学校のクラスに戻された。
これからは、小児精神科病院に併設されている、
芸術療法を受けにいくための処方がされるだろう。
この日のお昼の給食の時間、
突然彼は、大きなテーブルの上にうっぷして、
両腕で顔をおおってしくしく泣き出した。
どれだけの間、彼の心が不安で、
どれだけ深く傷ついたのか、
言葉にならないショックが
激しい嗚咽と共に伝わった。
小刻みに揺れる小さな身体が、
その苦しみと彼の「普通さ」を教えてくれた。
私が一緒に仕事をしていた担当の心理師が、
彼の背中を撫でながら、
もうおうちに帰れるからね、大丈夫だから、
と伝えていた。
私は、良かったな。。という安堵感とともに、
「でも日本だったら、
極めて普通だよな。」とも思った。
そして今、
この世で、
自分が「普通」じゃないということに
ショックを受けたり、
逆に、自分が「普通」であることに
ガッカリしたり、
「普通」からはみ出ようと、
変わったことをしたり。。
「普通」じゃないことを利用したり。。
私自身を含めて、
人はなんと欲深い生き物だろうか。
なんと人間臭いのだろうか。
それぞれの「普通」と、その毎日は、
当たり前過ぎて、
感謝なんて忘れてしまうものだな。
しあわせだという証拠かな?
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