日本の近代史 WWIから日中戦争まで
明けまして、おめでとうございます。
新年は日本の近代史に関する本を読みました。KADOKAWAのまんが学習シリーズです。こちらの近代史編です。
社会人になって歴史の勉強をしようとしても、覚えることに重点を置いていてはなかなか上手くいかないと思います。
私は学生時代にやっていた歴史の勉強のように丸暗記科目という意味で勉強しようと思ったわけではないです。日本の歴史のダイナミズムを感じ、そこから現代の日本にどうつながっているのかを解き明かしたいと思いました。
現在の世界情勢は非常に複雑になっており、めまぐるしく日々緊迫したニュースが取り上げられます。しかし、その事象だけを取り上げても、安い感情論しかもたないことが多々あると思います。私もそう感じてきました。新聞やネットで情報収拾をしているつもりでも、なかなかニュースそれ自体を「点」としか見る事ができませんでした。「線」としてみるためにも、近現代史を学ぶ必要があると思ったのです。
近現代史は明治維新後の日本に焦点を当てています。急速にグローバル化が進展して戦争特需を受け経済発展していきます。グローバル化の基礎を知るための重要な時代と捉え焦点を当てました。
第一次世界大戦まで
1900年代初頭、ヨーロッパを中心に帝国主義が進んでいました。帝国主義は他国を植民地として自国を発展させることです。そのような風潮がある中で、オーストリアの皇太子がサラエボでセルビア人の青年に殺されます。
当時のセルビアは列強の利害の渦中にいたことから犯行に及んだとされています。そこからオーストリアはセルビアに戦線布告をします。それに乗っかったのが列強各国です。植民地拡大など利害のせめぎあいがありました。
そこに日英同盟を背景に英国から出陣要請がかかりました。この時、英国は中国海上付近のドイツ艦隊を迎撃して欲しいとの要求でしたが、日本は中国植民地化の構想を持っていたので、中国に基地をおくドイツを撃退します。こうして、日本も戦争に参入していきます。この時に悪名高い「二十一か条の要求」が行われます。日本はこの時、主戦場ではなかったため、欧米から軍事関連の注文が相次ぎ戦争特需に湧きます。
第一次世界大戦後
第一次世界大戦は長引く戦争により各国で国民運動や革命がおきたことで、終息に向かいます。最終的にはドイツが敗戦を決めたことで、パリ講和会議が開かれました。パリ講和会議ではベルサイユ条約を戦勝国とドイツとの間に結び、巨額の賠償金をドイツは支払うことになりました。結果的にこれが第二次世界大戦へと繋がることになります。
また、ウィルソン大統領は今後大きな戦争がおこらないように、国際連盟の設立を呼びかけます。4年4ヶ月にわたる長期の争いは各国民に大きな犠牲と経済成長の衰退を強いることになり、2度と戦争がおこらないよう、無賠償・無併合や民族自決唱えられるようになります。しかし、パリ講和会議の結果、結局ドイツは多額の賠償金を背負う羽目になります。
日本は戦争特需で市民の生活が向上して、街にはレストランや最新ファッションが流行します。それとともに、普通選挙実施の声が高まり、社会全体が底上げされます。これを大正デモクラシーとよびます。モダンガールやモダンボーイと呼ばれるファッションリーダーも存在しました。
写真だけみると、とても戦前に思えませんね。このように、自由な気風があった中でなぜ、日中戦争・第二次世界大戦に踏み込む結果になったのでしょうか。
ポイントは関東大震災と世界恐慌です。
戦後特需を失った日本はすぐに不景気になります。そこに、関東大震災がたたみかけます。関東大震災は火災により亡くなった人が主だと言われており、かつて木造住宅が密集していた東京は大規模火災によって多くの人が亡くなりました。また、畳み掛ける災害により中小企業は軒並みつぶれ、資金を回収できなくなった銀行も同様に倒産することになります。
アメリカではそのころ、生産過剰にもかかわらず株価が上昇して実態とかけ離れている状態に陥っていました。つまりバブルです。このバブルはやがて弾けることで、世界恐慌を引き起こしました。すでに国際貿易をおこなっていた資本主義はこのあおりを受けます。
日本はアメリカへ生糸の輸出がメインだったため、地方の農家は特に被害が大きかったそうです。関東大震災の影響で職を失った労働者は農村へ帰りますが、農村でも同様に仕事がないという負の連鎖になってしまいました。
第一次世界大戦後、世界情勢は表上は軍縮に向けた動きで各国を牽制しあっていました。日本も同様に軍縮にむけた動きをとっていました。しかし、それをよく思わないのが軍部でした。軍部は中国での利権を拡大するために勝手に満州事変(中国人が鉄道を爆破したとみせかけて、それを口実に戦争を開始)を起こし、満州国を勝手に設立します。
このころになると、内閣では軍部が手に負えない状態になっていました。その時の犬養毅内閣は世界情勢と軍部の板挟みにあっていました。軍部の満州国設立に反対をしていた犬飼は軍部から目をつけられて、暗殺されます。これを五・一五事件と呼びます。1932年。
また、1936年には軟弱な外交に対して軍部の青年団皇道派が当時の内閣の大臣たちを襲撃する事件がおきます。これを二・二六事件と呼びます。
世界恐慌時の海外の動き
世界恐慌時の海外の動きに目をあててみましょう。
アメリカは恐慌を乗り切りためにフランクリンルーズベルト大統領によってニューディール政策をとりました。これは有名ですね。この政策が功を奏し少しずつ不況を抜け出します。
イギリスやフランスはブロック経済圏を気づき自国の利益になる国(植民地)としか貿易をしないことで、不況を乗り越えます。
ドイツは天文学的な賠償金の中、国民は苦しんでいました。アドルフ・ヒトラーが政権をもつことで、多量失業者に軍事関連の職につかせ、労働を確保して、再軍備に備えます。最初は過激な思想に共感する国民が少なかったものの、巧みな話術と労働の機会与えたり、経済を発展させる実績を残すことで信頼を得ていったといわれます。ドイツのような一党独裁政党をファシズムといいます。
イタリアは第一次世界大戦の戦勝国ではありましたが、隣国オーストリアとの植民地争いや労働者のストライキが相次ぎ、政情が不安定でした。ムッソリーニが台頭することで、一党独裁政党を築いていきます。
日中戦争まで
日中戦争のポイントは蒋介石と張学良の共同戦前・盧溝橋事件です。
日本では二・二六事件後軍部が政治にも介入していくるようになります。そのころの日本ではすっかり大正時代の自由な気風が失われていました。背景には治安維持法で共産主義を取り締まり、思想や考え方を強制したからです。大正時代に支持を得た美濃部達吉の天皇機関説や吉野作造の民本主義の考え方は否定されました。
自由な気風で「市民にも権利を」と主張していた大正デモクラシーから、驚くべき風潮の変化だと思います。やはり背景には不況からくる極度の貧困、ドイツやイタリアのファシズム体制に影響されたと言えるでしょう。日本は満州事変の権益を国際社会に認められなかったため、国際連盟から脱退しました。同じくドイツやイタリアも連盟には所属していなかったことから、ファシズムの風潮をより受けたのだと思います。
軍部が強い力をもち天皇を中心としたファシズムが徐々に浸透していくなかで、満州で盧溝橋事件がおこります。そして、日中戦争に突入していくことになります。
終わりに
第一次世界大戦の後に2度と戦争を起こさないために、ウィルソンやレーニンが無賠償・無併合を唱えたのは画期的なことだと思いました。当時から平和は望まれていたんだと思います。国内で軍部が大きくなり政府が統制を取れなくなったことが、日本が第二次世界大戦に突っ込んだ原因かと思いますが、それ以外でも海外情勢や植民地支配拡大を狙う、各国の思惑があり、非常に複雑で判断が難しかったでしょう。
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