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退院しました。皆さま、ありがとうございました。

皆様には、ご心配頂きありがとうございました。
ご報告が遅れましたが、9月26日に、無事に退院いたしました。

私は、7月1日に、不覚にも自分の家のリビングで転倒し、右上腕を骨折しました。朝、急いでいた用事があり、今は覚えていないのですが、本箱か食器戸棚から何かを取ろうと足を出したのですが、左足で右足のスリッパの後ろを踏んでいたようで右足が出ずに、愚かにも頭からそのまま床に突っ込ようにバタンと勢いよく倒れました。
大きな音がして、同時に骨が折れるバキッと言う音が聞こえました。
「やってしまった!!」という思いが湧きました。
なぜならば、私は骨粗鬆症で骨が弱く、医者からは口が酸っぱくなるほど「転ぶな!!」と言われていました。
頭が白くなるような後悔の思いが湧きました。けれど、すでに時遅しです。私は頭から突っ込んだものの、倒れた姿はうつむけでなく、あおむけに倒れていました。
自分の上腕を見ました。ところが胴の近くにあるはずの上腕がない。
「どこどこ?」「私の上腕はどこ?」と捜しても見当たらない。
焦って顔をいろいろ向けて見渡すと、あさっての方向に向いた上腕が右上方に見えました。
「あった!」と、ホッとし、左手を伸ばして右上腕を引き寄せました。

なぜ、私の転んだ体勢がうつぶせでなくあおむけだったのかと考えるに、
左の上腕にはすでに、以前の転倒の手術で金具が入っていて、その左の腕を打ち付けてはいけないという無意識の回避行動をとったのだと思います。

さてどうしよう・・。
「起き上がれないし、救急車呼ばなくちゃ・・」
でも、テーブルの上に置いていた携帯に手が届かない。この体勢で家の電話機にも手が届かない。
暫く思案し、ふと、左側を見ると目の前にアルソックの緊急通報のベルが電話機に吊る下がっていたのです。
「やったー!!」と、すがる思いで、私は、アルソックの緊急通報ベルを押しました。

ーーーこんなことを長々書いても読む方は迷惑でしょうから、その後の経過は次回に《入院レポート》としてゆっくり書くことにしてーーー


ここでは、ご報告として、簡単に書かせていただきます。
まだ、パソコンは、タッチペンで書いている状態です。

7月1日に、転倒して右椀骨折。救急車で病院に運ばれる。
7月4日に、上腕手術。骨が粉々で、相当に難しい手術だったようです。

右上腕の手術です。骨が粉々でネジが止まらないようでした。
あああ、手術しなかったけれど、左肘も骨が欠けていたのよね。
金具は以前の手術のものですが、麻酔して手術をするより、
左肘は自然治癒に任せるのが最善という事でした。
長く痛かったけれどね・・。


7月30日には、手を吊るしていた7階の病棟から、
3階の回復期リハビリー病棟に移りました。
この時点では、まだ右手のギブスは取れていませんが、
ギブスは、6週間目に取りました。

リハビリーは、7階でも足のリハビリーはしていましたが、
3階に移ると、リハビリー病棟ですから、午前は足のリハビリー、午後は手のリハビリーです。
・・と言っても、上腕の骨はまだついていないので、仮骨が付くまでは、右手のリハビリーは肩回しとか、物をつまむとか、テーブルをなでるとか、手術の腕をねじったり圧を掛けないような軽いもので、足は足首に重しを巻いての筋肉保持のリハビリーなどでした。
その他、リハビリー時間以外でも、看護士さんの付き添いで、毎日、病室の廊下の700メートを歩くなど、けっこう忙しい計画なのでした。

これは病室で、長い廊下ではありません。

つまりは、私の上腕のリハビリーは、骨がくっつくまでは、本格的な手のリハビリーはしてはいけないと、先生から許可がでなかったのです。
私はストレスがたまるよねえ~とわがままをいって、(リハビリー室には言語訓練のための防音の個室があるのですが)、言語訓練室で、パソコンのユウチュウーブのカラオケ動画を出してもらい、ペンライトを左手で振って、立って足踏みをするという条件で、8月後半と9月の午後は、毎週、楽しくカラオケを歌っていました。寛容にしてくれて感謝です。

美空ひばり、島倉千代子、八代亜紀、都はるみ、テレサテン、石川さゆり、森田公一・・などなど、凄くたくさん歌いました。
そうしたら、リハビリーの先生は、30代後半の先生が多いのて、私が大声で歌う古い歌の6割くらいは知らない歌だっていうのです。驚きました。
世代の差を感じ、ああ、昭和は遠くなりにけりでしたww。
でもね、とても楽しい時間を過ごせました。
付き合ってくださった先生、ありがとうございます。おかげで、ストレスなく過ごすことができました。良かった~~。

また、入院中に私は誕生日を迎えたので、妹や友人がケーキや果物を持ってきてくれました。こっそり?食べました(こっそりでもなかったかな?)。久しぶりの娑婆の味。美味しかったです。だって、普段は病院食ですからね。

これ、こっそりっていう訳に行かないですね。

もちろん、病院も、月一で行事食といって、普段よりはちょっとだけ豪華な食事も出るし、普通のメニューも、色々と工夫はしてくれているのが分かるのですけれどね。それに、このコメ不足騒動の中、美味しいお米を出してくれていました。

リハビリー以外の手持無沙汰のときは、私は、携帯とタッチペンだけだったから、リハビリーの先生に言って、繋げてもらったメルカリをしょっちゅう見て、思わずポチっていましたww。
ジェットストリームのボールペン見つけては、連日、注文しちゃって100本は買いましたww。あと、タオルハンカチとか・・。
暇はいけないです。テレビ見ることぐらいだと、ストレス発散が、何処に向かってしまうか分からないですね。

やれやれ・・と言う感じです。


本を送ってくれた友人もいました。手が使えずに入院中は読めませんでしたが、インタビュー記事の題名が深く心に残るものでした。
『生きるとは自分の物語をつくること』
そうですね。

行きたかっただろうと、美術館に行って、マグネットを買ってきてくださった友人にも感謝いたします。


退院して家に帰ってきたら、やっぱり3か月の入院は日常とは違ったのか・・あれほどリハビリーしたのに、足はよたよた。病院の水道は手をかざせば自動で水が出てきたけれど、家の水道は蛇口を上げ下げする。この上げ下げがこれほど力がいるものなのかと驚いたり、室内の植物に水をやる1.5キロはいるプラスチック容器には、水は半分ほどでなければ、重くて持ち運びできない腕の筋肉のなさに驚いたり。手の仮骨は出来ているけれど万全ではないから無理はできないのだと自分を納得させてはいるけれど。
だって、骨が強くなるのは6か月~1年はかかるのって言うし・・。

転ぶのではないかと心配で、まだ、ベランダに出て植木に水を上げないようにはしているけれど・・・。
やっと5日たって、日常生活の7割は、ゆっくりならできるかなと、不便はあまり感じられない今日になりました。

今回の3か月の入院は何やかや、楽しい時間を過ごさせていただきました。
入院時にも、誕生日にも駆けつけてくれた妹をはじめとして、凄く心配してくれたケアマネさん、ありがとうございました。
東京出張の度に来てくれて我が家に泊まり手続きやその他の様々な用事をしてくれた大阪の息子、また、いつもは外国にいる息子の奥さんと孫ちゃんは、たまたま夏休みという事で運よく日本にいてくれて、3週間ほど、私の住まいの冷蔵庫に残された腐った食料を捨てたり掃除をしたり物を持ってきてくれたりと助けられ、ありがたかったです。外国にいる息子も遠くから心配してくれていたようで嬉しかったです。

そしてなによりも、7階は洗濯ものを看護師さんに頼めたけれど、3階は乾燥機が壊れたため頼めなかったので、毎週末、洗濯ものを病院に取りに来て洗って持ってきてくださった友人、そして、たった15分の面会にもかかわらず、何度も来てくださった友人、千葉や岩手や所沢からわざわざ来てくださった友人、皆さま、本当にありがとうございました。
さらに、たくさんのメールで励ましてくださった皆様、本当にありがとうございました。
退院時に、荷物のたくさんある私をこころよく迎えに来てくださった楽しいわが家の皆様ありがとうございました。
そして、noteの皆様、励ましてくださって本当にありがとうございました。

3か月のこの不思議な期間は、私がこれから生きる残された時間をいかに自分らしく充実して生きるかのヒントを与えてくれた時間でした。
傷だらけの人生の締めくくりをしなくっちゃあね・・。

青天の霹靂で、もう終わりかとまで思った今回の転倒骨折が、このように治ったことに、今の医学の凄さを感じ、感動しました。

最後に、高い技術で手術し、最後まで親身になって丁寧に見てくださった先生方に感謝を申し上げます。ありがとうございました。

退院の週の日曜日の病室の窓から見えた夕焼けが、本当に綺麗で、
また、頑張ろうと思いました。



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