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黒い世界は名作を作る。
黒い世界は名作を作る。これは祖父が言っていた言葉だ。大正11年生まれの祖父は、小学校のころ死んだ。ぽっくり逝ってしまった。夜、スッと寝て、その日の夜中に死んだ。脳卒中だった。父の涙は初めて見たけれど、僕は泣けなかった。今もそうだが、死んだという実感がない。まだ、あの六畳の部屋に行けば、まだ、そこに居るような気がしてしまって、どうしても、まだ、区切りがついていないのだ。
彼は非常に学があって、しっかりセンスもあった。だけれど、戦争のことは一切、話してくれなかった。軍歌だったり、そんなことを歌うこともなかった。なにも戦禍を斯く語ることは無かった。
ただ、祖父は静かにテレビを何時も見て、カップ一杯の安酒を飲んでいた。大正の人とは思えないほどに、静かで、頑固さは無く、でも、しっかり芯がある人だった。
世の中が暗く、霧で見えないほど、名作が生まれる。そう言ったのだ。始まりは、小学生の僕が「名作ってどう生まれるんだろう」と訊いたのが、始まりだった。だから、そう言われるのは、しょうがないのだけれど、こんなに暗いこと言う必要なくねぇか? と問い詰めたいものである。
今思うと、確かに世界の名作文学といえば、イカれた人が苦しみながら、涙ぐましい努力で作られる、意味の分からないものと言える。レ・ミゼラブル、カラマーゾフの兄弟、シェイクスピアの四大喜劇などなど、名作はその時代性を表すかのように、唐突に生まれる。その彼らの苦しみを知らずに、瓶を拾い、「これが名作か、なんて素晴らしい」とほざいている。
僕の大好きなカラマーゾフの兄弟なんて、あのドストエフスキーだ。銃口を突きつけられて人生が変わった男である。イカれていることに変わりないのだけれど、もし自分が…と思うと戦々恐々としてしまう。変わった嗜好と変わった思考をしているからこそ、あんな作品を書けるのだろうなと思わずには居られない。
バブルが終わり、デフレに突入した日本の文学(小説、漫画含む)は、暗い物が多くなったというわけではなく、明るい作品が頻発したように思う。
でも、今では暗い作品が大半を占める。鬼滅の刃やチェンソーマンなど、絶望を目の前にぶら下げ僕らに問いかける作品が多くなった。俺は海賊王になると言ったことは、だれも、なにも、問わなくなった。これは、僕らの太陽が沈んだだけだ。最初は夕暮れで太陽は見えていたが赤かった。でも、何時の日か水平線に消え、夜が落ちた。それだけのことのように思う。
いいことかと言われると少し困るが、消費者からすると大変楽しみな反面、世相を反映する文学作品が人気になると、「これからは厳しいのかな」と思わずにはいられない。
物語は絶大な力を持つ。
それを示す、僕の好きな話の一つに、アウシュビッツの中で記憶を頼りに皆で固まり、物語を聴かせあい、寒い夜を越えたという話がある。それを読んで、僕はいの一番に残酷だなと思った。物語は希望を生む。脳はドーパミンを受け取り、希望を生み出す。その希望は、いつまで続くのか分からない絶望を良くか悪くか薄めた。そして、生きたのだ。長い地獄の時間を。いつか、抜け出せると信じて。そこで、数多のユダヤ人が死滅した。
物語が持つ力は、あまりに残酷だ。科学が突きつける真実かのように、残酷なのだ。まるで鋭利な刃物みたいに僕らを切り刻む。ぶつ切りならまだしも、いつのまにか、みじん切りになってしまうのだ。
僕みたいな社会と嫌い合っている人をどうにかこうにか、生かす術にもなりうるのに、絶望を薄めることしかできないという側面も持っている。
なんとも、残酷だ。
明るい時代には名作は生まれないのか、といわれるとそうでもない。実際、明るい時代だから生まれた。という作品もいくらでもあるはずだ。ただ、暗い時代のほうが、人間が持つもっと暗い要素を見つけやすい。絶望という夜に目が慣れるのだろう。または、それが明るく光り輝かせるというだけだろう。画家が写実的にデッサンするのと変わりない。
つまり、時代の濃淡は、その傾向を映し出すというだけだ。
世界は株価のように変動し、濃淡を映し出す。今が日本の夜だとすれば、僕はどうするだろう。一人、マッチに火を灯し、昨日買ったナッツでも探すかもしれない。
アウシュビッツの彼らのように、僕らも今こそ、物語を語り合って、寒い日を超える時が来たのかもしれない。
それを超えるための物語は本屋にあるのだから。超えられるはずだ。その場しのぎだけど、真夜中の月光にはなるはずだから。