
「マルちゃん 赤いきつね騒動」の一見解
先日、友人と深夜にゲームをしていた。大規模戦闘型FPSゲーム、デルタフォースである。僕が使っているキャラの体がモロトフで燃えて、僕は熱い熱いと叫んだ。そんななか、世間では、「マルちゃん 赤いきつね」が燃えていたようだ。SNSをあまり見ない僕は、その情報を知らなかった。ゲームの最中、友人から聴いて漸く話が分かった。聴いた話が改変されていないか、ゲームが終わった後、夜中に調べた。まあ、僕、個人としては、「あれが……炎上するんか。怖ろしや」という具合である。
なのに、ここでモロトフに触れるのは、馬鹿であるが、書きたいなと思ったので、今、書いている。
その炎上の内容としては、冬の夜にドラマを見て、涙を流す妙齢の女性が「赤いきつね」を食べ始める。頬を赤らめて、麺を啜ったり、途中で髪を掻き上げたり、うどんを食べる口元が映る。
そんな内容である。
ネットの記事によれば(僕はその炎上の過程を見ていないので記事を読んだ)こう書いている。
2月16日ごろから、この内容に対する批判がSNSで相次いだ。若い女性キャラクターの頬を赤く染めるなどの表現方法について、「気持ち悪い」「こんなに顔赤らめて口元セクシーに描かれても共感できない」などの声が上がった。さらに、制作過程において生成AIを使っているのではないかと指摘する声も上がっていた。
との指摘だ。「アニメは人間が描いても、作画崩壊が世の常だよね」と思っている僕からすると、生成AIは疑問ではなかった。
イラストレーターの友人に訊いてみたら、
「全部がAIとは言わないよ? でも、一部はAIだと思うけどなあ。あんな初歩的なミスするかな? そもそも、広告の為の動画なんだから、制作に時間はあったはずだし、広告費も幾分か頂いているはずだから、手を抜かないとおもうんだけどなあ。自分のポートフォリオにも成るし」
とのことである。少し、指摘に現場のリアリティがあって、神妙な面持ちで聴いてしまったのを覚えている。
僕は「ほう、なるほど」と呟いた。
個人的には違和感はない。赤らめようが、口元をアップにしても、そこに性的興奮を覚えることはない。一応言っておくが、僕は異性愛者である。アニメで描かれるような、美女や街の中に咲く麗人は美しいと思う。それを見たからと言って、特に興奮はしないが……。
一方で、個人的には、その画角、原画設定は、監督の演出と思った。人を飽きさせないための、画角の変更。また、リズム。躍動感の演出だと得心した。もっと平たく言ってしまえば、CMや映画などに使われる一般的な技巧であると。
そう思った。
別にその意見を否定する気はない。
「なるほど。そう思うんだな。僕には関係ないか」
で、終わることである。
些か気になったのは、彼らの中に攻撃的な表現を用いて、呟く、指摘する人がいることである。
そう、こっちが主題なのだ。
僕は芸術は勝手にやらせとけばいいし、指摘も、時間を掛けてない指摘なんて気にしなくてもいい。そう思っているタイプだ。監督がどうしようが、もっと間口を広げたら、漫画家、小説家、脚本家、画家がどう書こう(演出しよう)が、問題はないと思っている。
そこを選び抜くのは、お金を払う人達。自分の価値観に合わなければ、読者将又、広告主はお金を出さない。つまらないものにお金を払う人は稀である。なら、そのパトロンへ最大限、コミットメントするべきだし、ある程度の成果を上げるべきであるとは思う。
でも、それを意識しすぎることによって、芸術の幅が狭まってしまうなら、僕は反対だ。
私的活動の延長線上にある芸術は、自由であり、開かれたイデオロギーの中で、倐倐と灯る光のように、垣間見られる作家性がこそが、芸術なのではないか。
そうおもう。それにより、ご飯が食べられなくともである。
危惧しているのは、ある種の弾圧である。綺麗な世界とは、なんなのか、それを僕らは考えるべき節目に来ているように思う。同色で塗りたくろうとする、人達がいる。清潔な病院はアルコールの匂いがする。この世界も何時の日か、アルコールの匂いで充満するのだろうか。
例えば、思想や表現方法により、弾圧された作家は人類史の中で多数いる。だけれども、昨今、そんな前時代的なことが起きることは、在ってはならないと思っている。
村上春樹さんは、よく槍玉に挙げられる。性的描写が多いことから、女性の権利を主張する団体に非難されることがある。だが、悪いものであれば、出版業界から排除されていることだろう。でも、見渡すとそんなことはない。その性描写を経て、重要な何かが、その作品の中にあるのだ。
苦手なら買わない。それでいい。言うまでもなく、当然のことである。そんな自分の心を悪い方向へ動かすものにお金を掛けることはない。皆、命をかけて働いているのだから。いつか時間で死ぬのだから、皆は結局、時給なのだ。
そんな批判を受けている彼を見ると、ああ、やりづらそうだな、と日々感じる。

炎上なんて、気にしてはならない。人類を統一する意思など存在しないのだ。真実ではなく、在るのは解釈のみ。日本人は約一億人。一億である。世界を見渡せば、八十億はくだらない。YouTubeやTwitter(x)での炎上なんて、その数万分の一、いや、数十億分の一である。だから、気にしないでいいのだ。
そう思えば、思うほど、こんな疑問が浮き上がった。
「自分の生活が充実している人はSNSをしないのではないのか?」
そんなことを、昨日の夜、ふと思った。
「確かになあ……。あの元気だった友人、SNS更新してないな、全然」
そう呟いた。
だから、東洋水産の方や担当されたアニメーターの方に言いたい。気にしないでいいと。
赤いきつね、美味しいじゃん。赤い頬、演出じゃん。
それこそ、本質なのだから。
御託を並べても、あの出汁の旨さは変わらない。
だから、なにかをするべきは僕らの方だ。
SNSは誰もが批判できる。アカウントさえ在れば、批評家になれることができる。どんな思想があろうとなかろうとである。俗世からの隠り世であるSNSは、それを助長するだろう。
昔は、「こんな批評は本に出せないな」と切り捨てられた意見すら、良くか悪くか、その顔を出す。
品がなくとも、学がなくとも構わない。芸がなくとも、才がなくとも、出せる。一部の特権だった批評が、批評という名の形を持って、民衆に公開された。昔、人権が民衆に解放されたように。
それは批評でなく、時に誹謗中傷になりえた。
僕らは、行動を起こさなければならない。その批判ということをするに当たっての責任をとるということである。
相手へのリスペクトや不快感をできるだけ出さない語彙の使用などモラル的なことは多数ある。最悪なのは、相手を小馬鹿にすることだ。そんなもの目も当てられない。
年齢、学歴、趣味趣向、そんなものを放り投げて、裸一貫勝負する。同じ土俵で言い合い。双方において高め合う。
それが批評であろう。議論であろう。
決して、一方的に蔑んで、相手を陥れることではないのだ。
昔の批評本は面白い。芸があるし、具体例も秀逸だ。事実を切り裂く鋭利な選択眼は圧倒的に研ぎ澄まされている。あれを才能という言葉で頭の中の棚に片づけるのは惜しい。あの数行、目流し数秒の中に本質を捉える能力というのは、どう身につけるのだろうか。研いだ時間は長いはずだ。くたびれた中古本から、そんな作家の苦心が見て取れた。
炎上をみて、僕は少しだけ成長した。そう思いたい。真実を解釈し、自分の意見も介錯すること。
それが重要なのではないだろうか。