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その言葉は誰のものか、私は何を物差しに

今日の文芸会でのこと。

カイさんの『お店番』シリーズの最新作は、
私も参加したいなみぐりーんふぁーむさんであったイベント
『ストーリータイム』のお話。

その中で、
AIの進化のもたらすものについてのカイさんの見解が述べられていて、
みんなで総評をしていくときも、
それについて持論を話される方もいました。

AIというものに対して興味津々という感じのカイさんと違い、
まっこうからAIに対して懐疑的というのか、
もういっそ敵視しているような感情をもたれている方もいて、
それはそれで面白いなと聞いていました。

私はただ単純に面白いな、と思っています。
AIが人間を超える、というのはどこを判断の基準にしているのか、
正直よくわかっていないのですが、
処理能力なんかはすぐ超えていってしまうだろうなと想像できます。
そうやって愚直に、素直に、進化を続けていくのだとしたら、
どこかで必ず心は生まれると思うのです。
そうなった時、人は存在しているのか、存在出来ていたら、
何をもって『心』を判断するのか、その頃には『心』に対しての解像度が今よりも上がっているのか、、、
考えていたら、めちゃくちゃ楽しいな、と思います。

カイさんは、
AIが進化していく上で、
今まで素晴らしい能力だったものへの評価基準が変わるのではないか、
ということを書かれていました。
そうなったとき、その能力を武器にして生きてきたひとたちはどうするのか。
そして、逆にコミュニケーションへの苦手意識のある人にとっては、
それを補ってくれる存在にAIはなり、そのために生きやすさを感じる人が増えるのではないかと。

なるほどな、と思いながら、
私はこの前noteで読んだ寒竹泉美さんの記事を思い出していました。
その方は、チャットGPTの有料版を使ってみた感想を、作家としての立場から書かれていて、
AIの文章はきれいだけれど、それにはみんな飽きてきてしまうのではないか、そしてその時、人の書いた生々しい文章を求めるのではないか、と。

それはすごいな、と読み終えて思いました。
確かに、AIの描いてくれた絵はきれいだけれど、
いつまでも見ていたいものかと聞かれるとどうかな、と思っていました。
瞬発力はあると思いますが、
持久力はどうだろう、と。

その話をちょうど時間があった時に話たのですが、
それに対してAIに否定的だった方から

「生きた言葉が生き残るというけれど、
その言葉が本当にその人の言葉なのかどうか判断ができなくなる」

ということを言われました。
このお話はちょっとした隙間にした話だったので、
あまり脱線してはいけないと、ここで終わってしまったのですが、
上の言葉を言われたとき

「その人の言葉かどうかなんて、
どれほど重要なのだろう」
というのが私の率直な気持ちでした。

十二国記の中で、
主人公の陽子が
「わたしは、やさしくしたいからやさしくするんだ。
その人がわたしにやさしくしてくれたからとか、
何も関係がなかった」
という、人にどうしてやさしくするのか、
という自身の影からの問いかけに返す言葉のように、

今でさえ、それがその人のオリジナルの言葉であることが難しいのに、
誰の言葉かなんて、問題だろうかと。
誰の言葉かが大切ではなく、
たとえその言葉を一言一句もたらしたのがAIだったとしても、
その人が言うことを決定したそのときに、
それはその人の声になるのだから。
その人が言うことを選んだその言葉は、
もうそれだけで十分に信頼することができるんじゃないかなと。
誰の言葉かではなく、誰から聞いたのかが自分に響くかどうかに繋がるのだと思うのです。

誰の言葉なのか、
決めるのは結局自分自身になるのだとしたら、
その人が目の前で口を開いて届ける決意をした、
それだけでいいのでは。
つまりは、疑うのなら、今からでも、もっと前からでも出来るんじゃないかな、と。

どうでしょう?

そんなことを考えながら、
文芸会からブックトークへ参加するために自転車を漕いだのでした。

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