手をはなすそのときがくるのは分かっているから
お風呂に入っていた長男と入れ替わりに、私が本をもって入ろうと待って居たとき。長男が体を拭きながら
「母、本をお風呂の中で落とさないようにね、気を付けてね」
と言った。夫は「それはあり得ないよ」といい、私は
「心臓発作でも起こさない限りない」
と言った。その瞬間、長男の顔がぴたりと止まった。
「あ。ダメダメ、長男がこわがってるよ!」
と夫が言い、
「大丈夫、今日のところは起こしそうもないよ」
と私も重ねた。
長男はやっと笑って「そっかぁ」と笑った。
あとはいつも通りの、ぽやんとした彼だった。
長男は「死」について敏感だ。
死ぬという事は、もう会えないということで、取り返すことはできず、取り消すことは叶わないと知っている。まだ実感は湧かないけれど、必ずいつかその事柄の前に立たなくてはいけないことを分かっている。
物語を理解することは次男のほうがよくできるが、この死に関しては長男がよくわかっている。死に関わることに、彼は敏感に反応して涙を流してきた。
お正月に「鬼滅の刃」の映画をどうしても観たいというので、次男は置いて二人で観に行った。そもそも物語にはあまり興味を持たない長男は、退屈するのではないかと思っていた。けれど長男は、後半一つ席を空けた隣で鼻をすすりあげ、嗚咽を漏らし、ぐずぐずに泣いていた。声を漏らすほど泣いていた。それを聞きながら、ああやっぱりそういうところは同じなんだなぁと感じた。
彼が死に対して敏感なのいつからか。
たしか保育園で借りてきた「ママがお化けになっちゃった!」を読んでからだ。読んですぐはそうでもなかったのに、長男が「母は死んだらそばにいてくれる?」という問いかけに、悩んだ末に「そばにはいない」と私が言ってから、のように思う。
これも他のお母さんスタッフに怒られた。どうして子供を安心させてやらないの!と。どうして、と言われても。だってできない約束はしないと決めているのだ。それが誰に対しても、絶対に約束は守れるものしかしない。約束を守れなかった時に傷付くのは自分だけじゃないから、絶対にしない。そう決めたのだ。それを曲げられなかったし、こんなことを逆に嘘で、その場しのぎで言いたくなかった。
死んだら、私は私の行くべきところがあるし、それは彼のそばではない。
いないことに安心する年齢まで生きてやりたいけれど、今たとえ死んだとしても、そばにはいない。
長男はそれからしばらくは夜寝るのが怖いと言って泣いたし、自分も家族にも死んでほしくないと泣いた。そのたびに繰り返し、死にたくなくいのはいいことだということ、寝てしまえばあっという間に朝になって、そしたらもう怖いとは思わないこと、その間私はそばにいることを話し、手をつないで寝かしつけた。
私も死が怖かった。
自分が死ぬことではなく、自分を置いて自分の大事なものが死んでしまうことがとても怖かった。
毎晩泣いていたし、今でも苦しくて泣くことがある。
実感をもっても、まだもっていなくても、変わらず苦しくてしんどい。
でもそれが悪いことだとは思ったことがない。
おかげで言わなくてもいい言葉をぶつけることはなかったし、どこかで誰のことも死を隣に考えて付き合っているのでいつでも今の瞬間がとても大切に想える。別れたあとはそれぞれの表情を思い出しては丁寧に記憶にしまっていく。小さな布にくるんでそばに置いておくような気持ちで。
もう会うことはないかもしれない。これが最後かもしれない。
実際そういうこともあったから余計に、そうやって自分の中で納得して別れる。
そんな毎日を繰り返すことが、私にはもう安心材料ですらある。
長男の心は彼のものだから、いつかこんな気持ちを、敏感な部分を植え付けたことを、腹立たしく思う日が来るかもしれない。それならそれでいいと思っている。その時は彼自身がどうにかするしかないことだと思っている。
でもそれまでは、とりあえずまるい頭を撫でて、あたたかい手を握るくらいのことはしようと思う。
いつでもこの手は消えるかもしれないし、彼が明日元気なのかの保証はどこにもない。