[ラストレター]を観て

映画が好き。
岩井監督の映画は劇場で見たことがなかった。
いつも背中をクッションに預けて、足を抱えて、頬杖なんてつきながら、時々窓のほうついてしまったりしながら、家の画面に映していた。
透明な画をとる人という印象を持っている。
透明な空気を撮って、その中の人たちの感情までくっきりとみせてしまう。
そんな映画監督。

ただただ映画館で映画が見たくなった。
月に一本は必ず映画館で映画が見たいと思っている。
映画館に行くようになって知ったのだけど、邦画は映画館の大画面で見たほうがよさが分かる。と、思った。
大画面でしか分からない機微があると思う。
そしてこんな大きな画面に一人写る勇気に感動する。

そんな私の、どうしても映画館で観たかった日に、時間が良い作品が岩井俊二監督の【ラストレター】だった。
画面に映った、はじまりの川辺のシーンで、ああ、岩井さんの画だと思った。
三人の子供はそれぞれ制服が違っていて、女の子と彼女より少し小さな男の子は弟なんだろうすぐ分かった。
二人から少し離れて、そばの滝を見上げていた少女は憂いをまとって、虚無を振り払えずに困惑し続けているように見えた。
場面は移って、お寺でのお葬式の場面。
母親らしい女の人に、親戚のような女性が話しかけ、ふらついていたのを立て直し答える姿が、私が昔見た友人のお葬式での家族の姿に重なった。
自殺だった。
二人と距離のあった少女のは母親が死んだのだ。
葬式の後、仏壇の前でぼんやりしている少女は、母親が残した自分への手紙が開けられないという。彼女の母親の妹である裕里は、そんな彼女にかける言葉が浮かばない。
落ち込んでいいのかも分からないという風情の少女鮎美に、裕里の娘の颯香が夏休みの間彼女の話し相手になるから、このまま祖母の家にいるという。
その提案を受け入れ、裕里と息子は自宅へ帰っていく。その時に鮎美から姉美咲の同窓会の案内を託される。
姉が亡くなったことを知らせるために出席した同窓会だったが、裕里は姉に間違われしまう。説明できないままスピーチまでさせられてしまった裕里はいたたまれずにすぐに席を立って帰ろうとする。
そんな彼女を追いかけてきた男性、乙坂は、裕里を美咲と間違っているのか「話がしたい」「君に恋をし続けている」と告げる。
彼を振り切ってバスに乗り込むが、その時乙坂から
「小説は読んでくれた?」
と聞かれる。何のことだか分からなかった裕里は、それを問いかける手紙を書く。返事をもらう気のない、住所を書かないままの手紙。
同窓会からあと、携帯に送られた乙坂からのメッセージで夫と喧嘩をしたこと。その腹いせのように、大きな犬を飼った夫にその世話をさせられていること。他愛のないことを姉の美咲のふりをして書く裕里。
乙坂は、高校時代の美咲との思い出を書いた一作が賞をとったが、その後は美咲の面影を強く持ちすぎて新しい作品が書けないまま年月を過ごしていた。そこへ送られ続ける手紙に、高校時代の卒業アルバムを探し出し、そこに書かれている住所へと手紙の返事を書き始める。
その手紙を受け取った鮎美と颯香は、名前をふせて乙坂へ手紙を書き始める。
こうして始まった三角の文通は、懐かしさで白く濁った高校時代のそれぞれの思い出を振り返りながら、苦い失恋や、取り換えの利かない初恋の鮮烈さ、戸惑いながらも隠せなかった残酷な気持ちの行方を蘇らせる。
それは姉の死を、母が自殺した事実の苦しさを、長く思い続けた気持ちの昇華を助ける一通の«手紙»へと帰結する。

ぽろぽろと落ちていく程度の涙を繰り返して、エンドロールが始まった時には体を折り曲げて嗚咽をこらえながらの涙になっていた。
誰かを想ったことは、そうとは知らないままでも、一方的な想いだったとしても、その人にとってのお守りのようなものに成りえる。
死んだひとは、やっぱりきっとそれぞれの胸のなかで時を重ねて行くものなんだろう。
何人かの死を抱えて生きてきて来たけれど、それを後悔して何度も死のうとしてきたけれど、それを止めたのは死んでいった人だった。
私の知っているあの人を、私は殺せない。
それだけで、ここまで生きてこられた。
生きているうちにそれ以外の生きる糧もできたけれど、今も確かに私の手をひいてくれるあたたかなもののなかにその人たちがいる。
これが思い出を生きるということなのかもしれないと、やっと最近実感として分かるようになった。
そういうことが、とても丁寧なつくりかたで届けられた。
そんな映画だった。

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