映画を“摘まめる”ようになりました
ここ最近の休日は、映画を一日一本は見ている気がする。
二日連続の休み中なのですが、
昨日は『永遠の僕たち』を見て、
そのまま、午後からは岡田准一さん主演の『ヘルドックス』(劇場で一回観ていて、ネトフリで配信が開始されたと知って二回目の視聴でした)を見ました。
この二本の連続は食べ合わせが悪いような気がしつつ、、、
今日は今さっきまで『ハッピーエンドが書けるまで』を見てました。
その前の休みは『RRR』を午前中に観て、
夜に『マイ・ブロークン・マリコ』を見ました。
(この二作も食べ合わせいいとは言い難いですね笑)
(というか、この場合は“食べ”ではなくて“観合わせ”とかになるんでしょうか?)
ある日の朝の四時に目が覚めた休日は『ナイブズ・アウト グラス・オニオン』を見始め、
また違う日の休日はエアバイクを漕ぎつつ『ゾンビ・スクール!』を見ました。
(このイライジャ君のビジュアルがとても美しいと思うんです、、、)
(ちなみに、このフィルマークスの感想の中の、「つき」というのが私です)
それとはまったく別の枠として、未だに前に書いたnoteの通り『ロードオブザリング』も見続けています、、、
これはもう続けて、というより、その時の気分的に見たい場面を選んでみています。
相変わらず全く飽きない、、、大好き。
書いては見て、見ては書いて、読んでをくり返している毎日です。
『ロードオブザリング』のnoteが何故か最近よく読んでもらっていて、いったい何故なのか不思議に思いつつ、、、
何故か分かる方、いましたら教えてくださいませ。
さて、
なんだか最近つい映画をみてしまうな、と感じています。
去年はこんなに映画を見なかったし、
こんなに気軽に映画を見始めることが今までの中でなかったことだと思います。
なんとなく、映画は二時間弱を強制的に縛られるものだったし、
感情をかき混ぜられるから途中でやめての切り替えがうまくできなくて、
だから子供のあれこれを片付けた夜に見ることが多かったのです。
夜に見始めると、それはそれで眠気に邪魔されたりするのですが、、、
今の触れ方は、なんだかちょっと友達と会話をするみたいに映画を見ているようです。
小説の世界の重たさに疲れたらエッセイや詩、漫画を読むみたいなものなのか、書くことに疲れたら映画を見てみる、みたいな?
どうやら私は基本的に大掛かりな世界を救うお話よりも、
ひとりの内面をゆったりと見つめたり、
どこにでもあるようでそこにしかない人たちの関係性を描いた映画が好きなようです。
(とか言いつつ、『ヘルドックス』や『RRR』もとっても好きだったのですが)
今日見た『ハッピーエンドが書けるまで』は、
ずっと見ようかな、と思っていてリストに入れっぱなしになっていたものですが、アマプラの配信期間がもうすぐ終わるというのを見て、
「よし、見よう」とボタンを押すことにした映画でした。
作家のお父さんは、
出ていったお母さんの家に時々ストーキング行為をしつつ、
彼女が帰ってくる日を待っていて。
息子のラスティは、
気になる女の子になかなかアクションを起こせなくて悩んでいて。
その上、先に作家になった姉にちょっと嫉妬したり、置いていかれたことで焦ってみたり。
ラスティの姉は、作家になるきっかけとなった小説の内容がすこし過激で、その中の一部分である、主人公が母親の浮気相手とのそういう場面を見てしまうというのが実体験で、愛というものを拒絶している状態です。
それぞれに愛に迷っていて、
純粋で、
見ていて可愛らしいような気さえしてきます。
ラスティが学校の英語の授業で読む自作の詩がとても素敵です。
この映画、役者の方々が本当に自然な様子で演じていて、
(そりゃそうなんでしょうけれど)
本当に彼らの日々に私は添わせてもらったような、
ちょっと違うけれど守護天使のような位置から彼らをみているような、
そんな気持ちにさせてくれました。
肩を抱いたり、抱きしめたり、キスをしたり、
大麻をいっしょに吸ったり笑、
料理をしたり、
生活を共にしている様子が本当に演技に見えないのが不思議です。
それは昨日見た『永遠の僕たち』も同じく。
(主演の女優さんが天使のように素敵です)
本を読んでいるとき、
私は1人ではないと感じてきましたが、
どうやら映画を見ていてもそれを感じるようになってきたようです。
たぶん、文字であたらない部分の感情に、
映像が手を当ててくれているのだなと。
このまま映画を本くらい気軽に摂取できる状態が続けば、
今年は100本くらい映画が見られるかも、しれません。
そんなわけで、これからは去年よりも映画の感想を書くことも増えそうです。