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『重い青』(短いお話)


 青だ、最初に思ったのはどうしてだったのだろうか。
 それは青ではないと思った。
 青だ、わたしが言うたびに、私の声が「これのどこが青なの。こんなに濁って。これは黒よ」という。「いや、闇のようだ」と続いたこともあった。
 それにしても何度もわたしと私はこの会話繰り返してきた。
 別に退屈は感じなかった。ただ、零れるように漏れる思いを、私はけして見逃さないということだった。あんなに嫌味な物言いをするくせに、結局は彼女も寂しいのかもしれない。もしくは、わたしを案じているのかもしれない。本当はもっと他の話題で話をしようと心をもっていてくれるのに、わたしときたら、零すものが「青だ」くらいで、もう辟易する手前なのかもしれない。
 ここは、どこなのだろうか、とも考えることはある。けれど、これは聞こえる思考ではないのか、私にも答えようのないものなのか、何も言葉が帰って来たことはなかった。
 わたしは液体の中にいるようだった。いるよう、というのは、水のような感触を肌に感じないからだった。ただ、耳に寄せるどこか濁音の混じった、それでいて強く塞ぐような感じは、水圧からのもののように感じる。なので液体のようなものの中にいるのだろうと考えているのだった。
 ここは、そう、青くはない。青よりもずっと深く、暗い色で、少し先の視界を塞いでしまう。時折まるで月が覗き込んだように、かすかな光の帯が下りてくることはあるが、それが何を明らかにすることもなかった。
 わたしが触れているもの、それはこんな色をしているというのに水よりもさらりとしていて、どこまでも清潔な、ほんのりと冷たい何か。とろみを感じないのに、腕を動かすと僅かに追いかけてくるような仕草を見せる。おそらく、これは液体のような、生物、に近い、いや、遠い意識の整列なのではないかと考えていた。
 ここには、わたしだけがいるのではない。まだ数は少ないが、ここがどれほどの広さであるのかを知らないわたしは、それがどれくらいの確率で起こることなのか分からない。それでも実際、三人をわたしは見た。
 そう、見ただけだ。
 一人目のとき、わたしもまだこの場所に慣れていなくて、どうにか仲間が欲しかったために、とても自分勝手な接触をしてしまった。
 わたしはちらりと見えた細く白い腕に、自分と同じ直感で同じ女性だと感じ、偶然のように近づいたその腕を掴んでしまったのだった。違う。正確にはつかめてはいなかったのだとおもう。この不思議な液体が膜のような働きをして結果としては彼女の腕は掴むことが出来なかったのだ。だけど、彼女自身に何某かの振動は届いた様で、うねり立つ髪の毛で見えなかった彼女の向けた顔は、まるで悪鬼を目の前にしたような目だった。ああ、ここではうかつに触れてはいけないのか、とその時知った。
 悪鬼を見たような表情の彼女は若く見えた。うつくしく、赤い口紅さえ見えた気がした。この重たい色の向こうに。彼女はまるで液体にそっとやさしく運ばれる様にして、遠退いていった。
 残された私は、身勝手にもできるだけ早く、彼女の中に襲来してしまった恐怖が消えていきますように、と祈るばかりだった。
 次に他のひとを見たのは、それから大分立った頃だった。もしかしたら液体の方でわたしの問題行動を考えて、他のものを近づけさせない要領で動いていたのかもしれない。想像だけれども。
 次に見たのは、少年だった。彼も美しかった。髪の毛の色は何故か白く、その線の細さに輝きがちらちらと見えるようだった。鼻筋は静かで、東洋の顔の造りのようにおもえたが、瞼に覆われた瞳の大きさを考えるに、どこかの国の血が混じっていたのかもしれなかった。少年は釣りズボンを履いて、女性にはもつことができないしなやかさな線の足を誰かに抱えられているような形で浮かべていた。靴は良いものを履いていたので、どこぞの御曹司なのかもしれないなと考え、自分の見る部分の卑しさに溜息を吐きたくなった。
 彼はゆっくりと私の前を通り過ぎ、そして見えなくなっていった。その間、私もその彼の形を真似て、足を抱えて見ていたが、途中から疲れてしまい、いつもの棒立ちのような形で彼を見送った。
 ここでは、溜息は吐けない。わたしたちは、呼吸というものをしていないのだ。口を開けてみたことがあった。どんな苦しさが押し寄せるのだろうかと、それはもう恐怖をねじ伏せるような覚悟をして。だけど何も起こらなかったのだ。口を開けてみても、私の口の中には何も入ってはこなかった。そして出ていきもしなかった。つまりわたしたちは、息をしていないのだ。この液体のなかで、それなのに苦しみもせず、どこか安心に抱かれ、退屈に倦むこともなく。
 三人目を見たのは最近だった。そのひとは、今までの二体とは違い、目を開けていた。そしてわたしを見て、自身から私の方へと泳いできたのだった。
 驚きで、思わず下がりそうになったわたしだったが、好奇心のほうが勝っていたようで、ぐっと体をその場にとどまらせた。
 彼女はくるくると巻いた髪の毛を躍らせながら、一生懸命に何かをわたしに言おうとしていた。ぱくぱくと動く口を凝視しながら、唇が読めるわけでもない私がそれでも分かったのは、「ここはどこ」だった。彼女は勢い余ってわたしの手を取ろうとしたが、それは液体の分厚い壁のために叶わなかった。わたしはできるだけ大きく口を開けて、「わからない」「あんぜん」「だいじょうぶ」とだけ伝えた。それがどれほど彼女の胸を落ち着けたのかは分からないが、何度もそれをくり返すわたしを見て、ゆっくりと笑顔をみせてくれた。そしてささやかに手をふり、液体に運ばれるまま奥の方へと沈んで行った。私は見上げた彼女のさみしそうな笑顔が色に飲み込まれるまで、見つめていた。


 ここは、不思議な場所なのだ。
 青く、いや、重い色の、液体のようなもので満たされたそこで、女性や、少女や少年、もしかしたら成年の男性や、妙齢の女性も浮かんでいるのかもしれない。
 地中の海のようなおおきな場所なのかもしれないし、わたしたちが細胞のように小さくなっているのかもしれない。
 わたしは、そのどちらでもよかった。
 「青だ」と思った。「青じゃない。色覚検査を受けろ」と私が言った。
 「でも青だ」と思ったわたしは、けれど正直そんなことはどうでもいいと思っていた。こんなに美しい。その色の中に浮かび、どこも苦しくない。痛くない。さみしくない。ゆったりと揺蕩い、光の帯を浴びる。そして時折、同じような誰かを見る。
 わたしの名前はもうこの液体に溶けてしまったのだろう。わたしの中には、私しかいなかった。

「青だ」
「いいや、青じゃない」

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