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「変化する目をもつ少年の話 雪の次の日のこと」

この続きです。




母親が溶けた。
その様子を思い出そうとすると、目が疼くような、痛むような、何かのきっかけで自分の眼玉をほじくり出してしまいそうな恐ろしさが湧いてくる。
母親は、きれいな液体になった。
溶けるようすは一瞬で、少しも苦しそうではなかった。
どこかほっとしたような、安堵したような様子でさえあった。
どこまでも母親の顔のまま、その白い身体は溶けた。
おそらく同じ分量になるのだろう液体は透明で、少しだけとろりとした重さがあったことを、鮮明に覚えていた。

今、おれは父さんと社宅で暮らしていた。
父さんは仕事が忙しく、それほど顔を合わせることがない。
ただそれでも食事の用意はされていて、
それは出来合いものを皿に寄せ集めただけのときが多いけれど、
ときどき、
不格好なおにぎりや、
味の薄いカレーがつくっておかれていることもあった。
父さんのことを良く知っているわけではないけれど、
父さんから愛されていないと思ったことはなかった。
いずるが雪を見たいと言ったために、
幼い頃の思い出の場所に一緒にでかけ、
綿埃ほどの雪を出した日の翌日は、
珍しく頭が痛んで早朝に目が覚めた。
そのために朝早くに出かけていく父さんに気付いたのだ。
思わず廊下に飛び出し、
「父さん」
と呼びかけた。
足を踏み出した衝撃と、声を出した振動が頭を震わせる。
痛みに涙が滲んだおれを、父さんは静かに振り返った。
その目には、不思議なほどのやさしさがあった。
驚きに開いた口元を隠す様子もなく、父さんはおれの名前を呼んだ。
「たすく、どうしたんだ。こんな時間に」
「頭がいたくて」
壁に手をついて答えたおれに、父さんは履いていた靴を脱いで戻ってきた。
額を抑えていたおれの手をどけさせてそっと父さんの手を当てる。
懐かしさに、胸に大きな波が立った。
いつか、おかあさんが、こうしてくれたことがあった。
おかあさんは、のんびりとした声で
「よくわからない」
と言い、それを見て父さんは困ったように笑っていた。
結局体温計を使ったのだけれど、何度もおかあさんは自分に覚えさせるようにおれの額に手を当てた。
平熱の低い人だった。
ひんやりするほどではないのに、その体温の控えめさに縋ってしまいそうになる。
細く、白い手だった。
「少し熱があるな」
父さんはそう言い、おれの首やあごの下を触った。
「昨日、雪を降らせたからかな」
そう言ったおれに、父さんは驚いて動きを止めた。
不思議そうに見上げたおれに、父さんは困ったように笑った。
「たすく、今日は学校を休みなさい」


静かな空間にチャイムの音が響く。
よく眠ったからか、頭の痛みは鳴りを潜め、白いような頭の中には朝の父さんの表情だけがぽっかりと残っていた。
ぼんやりと瞬きをくり返したおれの耳に、
またチャイムの音。
今度はさっきよりもつよく押された気がした。
そんなことで機械の音が変化するはずはないのだけれど。
どうしようかと枕に埋めていた頭を横向きに移動させたとき、
三度目のチャイムが鳴り渡った。
しょうがない。
そう思ってゆっくりと体を起こす。
慎重に動いてみたけれど、体はもう十分に休息をとったようで、眩暈も気持ちの悪さも、不調らしい不調は残っていなかった。
おれは三度のチャイムの間待たせているのを気にせず、
そっと廊下に出てドアの外を映した画面を起動させた。
そこに映っていた人に、驚き、急いで通話を開始する。
「はいっ」
「あ、いた。よかった」
「あ、あの、どうしたの?」
「えーと、ごめん、具合が悪いのは分かってたんだけど、
昨日の今日だったから気になって」
心配で来てしまったのだと、いづるは小さな声で言った。
友人が家に来ることなど、いつぶりだろうか。
そう思うと同時に、友達という言葉に頬が熱くなった気がした。
雪を降らせた帰り道、おれにいづるは言ったのだ。
_もうそろそろ名前で呼んでくれても良くない?
と。
あまりに突拍子もない言葉だったために、おれは間の抜けた顔をしていた。
それを見ていづるは笑い出し、それからいきなり真顔になって言った。
_まさかと思うけど、俺の名前知らないとか。
_知ってる。
_よかった。知らないんだったら、ちょっと悲しかった。
悲しかった、と言われ、おれの内側に広がったのは光の破片のような波だった。
その煌めきに目を奪われているおれに、いづるは言った。
_じゃあ、これからは名前で呼んで。
バスが来て、揺られる間、いづるは外を見ていた。
その横顔はけして不満そうではなかった。
今しがた山の上で観て来た場所に帰っていく時間を楽しんでいる。
そんな風に見えたのだった。
「たすく」
スピーカーから聞こえたいづるの声に、思わず「はい」と返事をした。
「あのさ、今上がってもいい?しんどいなら遠慮するけど」
「大丈夫」
言いながら、おれは玄関へと移動し、鍵を回し開けた。
ドアを押し開けると、同じようなドアがぐるりと並んだ向こう側を背景に、
いづるが立っていた。
「顔色、そこまで悪くないな」
「頭が痛かっただけだよ」
言いながらいづるを招き入れ、ドアを閉める。
いづるは「お邪魔します」と言いながら靴を脱いだ。
「どうぞ」
と言いながら、おれは部屋へといづるを通した。
大して物がないおれの部屋に、いづるは驚いた様だったけれど、
何も言わずに床に腰を下ろした。
「何か、飲むもの持ってくるよ」
「手伝う?」
「ううん。いい。あんまり家に人入れたことないから、父さんが嫌がるのかも分からないんだ。おれの部屋にいてほしい」
「わかった」
いづるはそう言うと、鞄の中からいくつかのプリントを取り出し始めた。
それを目の端に残して、ドアを閉めたのだった。


「これ、先生から頼まれたプリント」
お茶くらいしかなかったけれど、いづるは気にした様子もなく「ありがと」と言いながらカップを受け取った。
空いた片方で、何枚かのプリントをおれに差し出す。
それを受け取りながら、おれも「ありがと」と返す。
しばらくは、おれはプリントを確認し、いづるは喉を潤すことで沈黙がおりた。
それを払いのけたのは、いづるの方だった。
「頭、本当にもう痛くないの?」
「大丈夫。なんか、めちゃくちゃ寝たらよくなったみたい」
「それってさ」
言いかけて、いづるは一度黙った。
その目は床を見ていて、どこか遠くへ思考を話しているようだった。
「昨日雪を降らせたから?」
声は、穏やかに、やさしかった。
その言い様が、けれど少し拗ねているようでおれはいづるの顔を覗き込むように見た。
未だ子供である自分たちの、幼い口元は正直だ。
尖りが加わって、悔しそうにも見える。
いつもは他のクラスメイトよりも大人に見えるいづるが、
自分たちと同様に幼さが染み出す表情を持っていてほっとした。
「どうだろう。そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
正直に言ったおれに、いづるは少し怒ったように眉を寄せる。
「わかんなくていいのかよ」
「分からないんだから仕方ないんじゃない?」
「それでもしものことがあったら」
「ないよ。そんなに大したことはできないんだ」
「でもっ」
いづるが自身の声に驚いたようだった。
彼の目の中で、おれも目を大きくして驚いている。
「たすくの、お母さんは」
ああ、とおれは納得した。
彼はおれがそうなるかもしれないことを心配してくれていたのだ。
だからこうして実際に顔を見に来てくれたのだ。
溶けて消えたわけではないことを確認するために。
「だ、大丈夫だよ」
「なんで分かるんだよ」
「だって」
だって?__言いながら、自分の言葉に不思議な感覚が襲った。
どうして自分は大丈夫だと言い切れるのだろうか。
その自信はどこからきているのだろうか。
分からない。
分からないというのに、絶対の自信をもって「大丈夫」だと知っていた。
「分からない。でも、どうしても、大丈夫なことは分かってる」
真剣な目をしていったおれを、いづるはしっかりと見据え、
そして少し長く息を吐きだしたのだった。
「そっか。それなら、いいんだ」
「うん、ごめん、ありがとう」
いづるはそれからすぐに帰ると言って立ち上がった。
「明日、学校来る?」
「たぶん」
「じゃあ、それまで、またな」
「うん、また」
言いながら、言葉に浮かび上がる懐かしさに体がふらついた。
玄関先まで見送ったおれに、いづるは大きく手を振った。
ドアが閉まるまでの時間が、とても静かで動作の大きさがそのまま音の大きさに直結しないことを知った。
いづるの手の平は意外に大きかった。


つづき、、、、ます。

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