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「変化する目をもつ少年の話  暗い夜中と明るい階段のこと」


このお話の続きです。




目の前が真っ暗だ、と思って、それはそうだと切り返す。
今は夜中で、目を覚ましたのはおれの問題なのだから。
そっと手を持ち上げてみる。
ゆっくりと動かしたつもりだったけれど、
暗闇のなかでそれははっきりわかるほどに震えていた。
ぐー、ぱー、と手を動かしてみるが、
問題なく行えた。
その事実にほっとしながら、
おれは手から意識を放した。
興味を失った腕がベッドの上に跳ねる。
小さな音が届いて、自分の呼吸が荒いことにも気づいた。
このところ、毎日のように夢を見ている。
それは断片的に目が覚めたあとも残っており、
数を増やすうちに感覚まで持ち帰るようになっていた。
暗闇のなかで、目を意識して閉じる。
このまま本格的に目が覚めてしまったら朝に起きられない。
また頭が痛くなるのはごめんだった。
呼吸を整えるように、わざとゆっくりと細く息を吐きだし、胸を沈める。
暗闇。
瞼の裏の、見慣れた闇。
こんなにもやわらかな色ではなかった。
あのガラスはいったい何と自分を隔てていたのだろうか。
あれは、確かにおれが過去に経験したことだったはずだ。
それは確かなはずなのに、どう探っても、おれの内側にはこの出来事のその後が、事のおさまりが少しも残っていない。
そんなことがあるだろうか。
あの部屋も、あの真っ暗なガラスも、見覚えはあった。
記憶にはないと言うのに。
あんな部屋で何があったというのだろうか。
__やめよう。
口を動かさずに、内側へと声を投げた。
夜だ。
ここは本物の夜だ。
あの真っ暗なガラスの中ではない。


「寝てないの」
「ううん。寝てる」
いづるに返事をしながら、おれは抱えた膝に顔を埋めた。
声が足下に落ちていく。
「めちゃくちゃ眠たそうなんですけど」
「うん、眠たい」
「寝てないんじゃん」
「違うの、寝てはいるの」
「なにそれ」
本のページが捲られる音が耳をくすぐった。
すこし前からこうしていづると共に学校の屋上に続く階段の一番上で、
こうして静かに時間を過ごすことが増えた。
おもに昼休みなのだが、たしか、最初はいづるがどうしても続きが気になる本があるからと言っていつものメンバーのもとを離れたことだった。
そのとき意味ありげにおれの方へと目線を寄越していたいづるを、少し時間を空けて追いかけたのだった。
行く場所は、見当もつかなかったけれど、意外にもいづるは角を曲がった階段のところでおれを待っていた。
一番上に行こう。
そう言ったいづるに、おれはただついていった。
本当は屋上に出たかったようだけれど、さすがにそこまでは叶わず、
仕方がないのでこの階段の一番上でおれといづるは時間を過ごすことになったのだった。
本を読むのなら、おれを誘わなくてもいいのではないかと言ったことがあった。
それにたいしていづるは、
「本を読むのに意識が持ってかれてたら授業に戻りたくなくなるだろう」
と言った。
つまりはおれが居れば声を掛けてくれるだろうし、
最悪サボるとなったら仲間ができるということらしい。
最初にそれを聞いたときは
「なんだそれ」
と言ったおれだけれど、こうして本を持っていづるが立ち上がると必ず少し時間を置いて立ち上がるようになってしまった。
いづるは、本当にただ静かに本を読んでいて、
その隣でおれはぼんやりとしている。
それだけの時間が、おれにはとても大切になっていた。
「帰ったらちゃんと寝なよ」
「だから、寝てるんだって」
「じゃあ、なに?」
今日は本を読むよりもこの話題がいいらしい。
次の授業に寝てしまわないように、少しお喋りをして頭をすっきりさせておくのもいいかもしれない。
そう思って顔をあげると、思ったよりも眩しい校庭が目に刺さった。
目を顰めるおれの目の下には、確かにうすく隈ができている。
それをいづるは指先で押しながら、
「目も赤い」
と言った。
「夢を見るんだけど」
「夢?こわいやつ?」
「うーん。怖くは、ない。たぶん」
「じゃあ、気持ち悪い夢?」
「そういうんじゃないんだ。なんていうか。全然おれのなかには無いんだけど、おれの記憶で間違いない光景をみてる、みたいな」
「怖いじゃん」
「こわい?」
「いや、だって、なんで記憶ないのに、それが記憶だって確信あるんだよ」


怖い。
怖いかと聞かれれば、そうなのかもしれない。
そう思いながら夢の中で目を開けた。
白い壁。
何かを遮断している壁に囲まれている。
たった一枚、目の前のガラスの一面だけが違う。
真っ黒なガラス。
いや、真っ暗のほうがぴったりのガラス。
この向こうには、お母さんがいる。
僕をみている。
僕のまわりには大人たちがいて、
ぼんやりとした顔は区別がつかない。
そして。


「父さん」
「__起きてたのか」
目を開けた。
目の前の暗闇に、瞬きをくり返す。
慣れてきたその中に、困った顔をした父さんの顔があった。
起き上がったおれに、父さんは頭を掻きながら笑った。
久しぶりに見たような気がする。
「起こして悪かったな」
「ううん。いいんだ」
ベッドから立ち上がり、部屋を出る。
うしろから父さんが付いてきて、台所の電気をつけた。
ぱっと世界は暗闇と光の反転が起こる。
目の前が真っ白になって、じわじわと色を置き直していく。
父さんが「何か飲むか」と聞いてくれたけれど、おれは首を横に振った。
椅子に座るおれの前に、父さんは冷蔵庫から缶入りの酒を取り出してから座った。
「父さんは、帰ってきたところ?」
「そうだよ」
「遅いんだね」
「ああ、最近ちょっとね」
「あのさ」
「うん」
「おれ、さっきうなされてたりした?」
おれの言葉に、父さんははっとした顔になり、そして無言で缶のプルタブを開けた。
炭酸の抜ける音が響く。
電気をつけているこの狭い空間にしか色は乗っていないような気がした。
飲むのかと思って待っていたけれど、父さんは缶に指を這わせるばかりだった。
そして間をおいてやっと
「そうだな」
と言った。
その答えを聞いたからこそ、おれは自分の話をする気持ちになった。
「夢を見るんだ」
「夢」
「でも夢じゃないと思う」
「そうか」
「おかあさんが、真っ暗なガラスの向こうにいる」
そう言ったおれの目を、父さんは真っ直ぐにみた。
そこにあった感情は、なんというものだっただろう。
「父さん」
「たすくは、それが夢じゃないって、分かっているんだな」
おれは静かに頷いた。
父さんの目は、この夜よりもさらに深く、届かない場所を覗き込んでいるようだった。



つづく、、、

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