ショパコン予選: 7/20の感想 (G.Osokins & 角野隼斗)
予選前からGeorgijs Osokinsと角野隼斗の演奏を楽しみにしていた(本noteでは敬称略)。以下各曲が作曲された背景に触れつつ、2人の演奏について感じたことを自分用に書き残しておきたい(暫く公開設定できずにいた)。(ヘッダーはCat piano, from La Nature, 1883、出典:Wikimedia Commons)
【Georgijs Osokins】
Osokins(プロフィールや前回ショパコンでの演奏等についてはこちらの13を参照)は上下とも黒の姿で現れ、自前の低い椅子に座り鍵盤に手を乗せ、ノクターン第17番ロ長調Op.62-1(*1)のアルペジオを左手からゆっくりと弾き始めた。その瞬間から場の空気が変わった。深みのある音色に惹き込まれていった。感傷的な旋律を丁寧に歌い上げていく姿が印象に残った。当時のショパンの心の葛藤が伝わってくるような演奏だった。
(*1: 1846年、ショパンがジョルジュ・サンドのノアン(フランス中部)の城館で7度目の夏を過ごす中で作曲;サンドの家族との関係がぎくしゃくし、11月には愛する弟子が待つパリに戻り、以後ノアンを訪れることはなかった)
次にOsokinsはマズルカOp.30-4嬰ハ短調(*2)を弾いた。マズルカらしい野趣に富む旋律とリズムをショパンの深い憂愁を表現するかのようにしっとりと歌い上げた。
(*2: 1837年作曲;当時ショパンはマリア・ヴァジンスカとの婚約が破綻;マリアの両親がショパンの職業や病弱体質を心配して結婚を反対)
マズルカOp.50-3嬰ハ短調(*3)も物悲しい旋律を丁寧に歌い、中盤に登場する勢いのある長調のマズルカを軽快に弾いた。
(*3: 1842年、故郷で恩師、パリで親友が亡くなり、ショパンは悲しい別れを経験した後で作曲)
Osokinsが選んだ2曲のマズルカは何れも嬰ハ短調(偶然の一致ではなく考え抜いたものだろう)。ショパンが悲しい別れを経験した後に作曲されたもので、その背景も知って聴くとOsokinsが紡ぐ音色が心により沁みてきた。
練習曲Op.25-10ロ短調(*4)は、冒頭、両手のオクターヴのユニゾンが半音階に上昇していくさまが、ショパンの込み上げてくる怒りを表現しているように聞こえるが、Osokinsはその怒りを抑え気味に弾いていく。途中穏やかなフレーズを経て、再び激情のオクターヴが始まる変化に富んだ曲を冷静に弾ききる。
(*4: 1835-37年作曲)
練習曲Op.10-5「黒鍵」変ト長調(*5)は一転して明るい曲調だが、Osokinsは殆ど表情を変えず、これまでと違って軽快なタッチで弾く。
(*5: 1830-32年作曲;練習曲集Op.10はリストに献呈)
練習曲を険しい表情で弾くOsokinsはショパンの前でピアノのレッスンを受ける弟子のようにも見えてきた。
最後のバラード第3番Op.47変イ長調(*6)では自由なルバートを駆使し、多彩な音色を奏で、ハッピーエンドで終わる物語を聞かせてもらった気分になった。Osokinsの更に洗練された個性が溢れる演奏だった。見知らぬ人ばかりが大勢集まるコンサート嫌いのショパンが夜会で気心知れた仲間に囲まれてくつろいでピアノを弾く姿が思い浮かぶような感じがした。他のバラードと比べて、ショパンの陰の部分よりも幸せを感じる瞬間が楽譜(音)に込められていて、Osokinsはそれを彼らしく表現していたように思った。
(*6: 1841年夏にサンドのノアンの城館で作曲;パリ社交界を代表するノワイユ公爵家の令嬢に献呈;ショパン自身も気に入った曲の一つでたびたび演奏)
前日の反田に続き、カーテンコールが起こった。遠慮がちに現れ、椅子の奥側で頭を下げるOsokinsからは自分の演奏に満足した表情が窺えた。
【角野隼斗】
白シャツの上にダークグレーのスーツを着た角野は緊張した面持ちで舞台に登場した。座ってから椅子の高さを調整し、しばらく気持ちを落ち着かせた後、震える手を鍵盤に置き、ノクターン第13番Op.48-1ハ短調(*7)を弾き始めた。リアルタイムで聴いた時、冒頭、強張った身体から何とか力を絞り出すように弾く姿を見守る気持ちでいた。が、何度か聴いているうちに、冒頭はLentoで一歩ずつゆっくり進めていくべきところなので、楽譜に従って弾いていたように思えてきた。儚げな雰囲気から始まり、コラールの旋律は力強く響かせ、再現部は控えめに弱音をきかせ、最後は余韻を残して終わった。タッチはいつもより控えめには見えたが、この曲のドラマティックさは充分表現されていたと思った。
(*7: 1841年サンドのノアンの城館で作曲;弟子のローラ・デュペレに献呈)
次に角野はマズルカOp.24(*8)の第14番(Op.24-1ト短調)のLentoで始まる旋律を囁くような音色で弾き始め、快活なマズルカのリズムをすこし遠慮がちに歌った。時折遠くを見るようなしぐさは、ショパンがパリの社交界で華々しく活躍するなかにあっても孤独を感じ、家族や友人の住む故郷に思いを馳せているそれにも見えた。マズルカ第15番(Op.24-2ハ長調)は一転して、快活にリズムを刻み、漸く強張っていた表情を綻ばせた。
(*8: 1833年作曲;当時ショパンが演奏を依頼されていた一流の社交界を代表するペルチュイ伯爵(ルイ国王の側近)に献呈)
練習曲Op.25(*9)の第4番イ短調では、左手の音域の広い跳躍は抑え気味に音を外さないように努め、右手の旋律を歌わせており、曲の陰鬱な雰囲気も出ていた。天気の悪い日にパリの自宅で、故郷で起きている様々の出来事に胸を痛めるショパンが思い浮かぶようだった。間髪入れず始まった同第11番イ短調「木枯し」では、Lentoの序奏の4小節のところで手が震えて見えたが、Allegroに入るところから勢いが出てきて、息つく暇もなく最後まで一気に駆け抜け、胸に迫ってくる演奏だった。
(*9: 1835-37年に作曲;マリー・ダグー伯爵夫人に献呈)
木枯しを弾き終えた角野の額や首筋には汗が滲む。一呼吸おいてバラード第2番Op.38ヘ長調(*10)のハ音が繰り返されるAndantinoの旋律を静かに弾き始める。マヨルカ島の浜辺に寄せるさざなみのように聴こえた。その静寂を激しく打ち破る激情のフレーズは平穏な島に突然轟き始めた雷のようで、髪を振り乱しながら弾く姿が肖像画で見たショパンのように見えてきた。角野のバラードからは、ショパンが言葉(や詩)ではなく音だけで作った壮大な物語を感じることができた。弾き終えた後のほっとした表情、少し緩んだ口元を見てほっとした。
(*10: 1839年サンドとマヨルカ島に滞在中に作曲;シューマンに献呈)
弾き終え、角野が姿を隠した後もしばらく拍手が続いた。彼は再び姿を現さなかったが、ホールの聴衆は感じた感動を拍手で讃えたのだと感じた。それが舞台袖の角野にも伝わっただろう。
【雑感】
前回のファイナリストのOsokinsは、コンクールの終了後のインタビューでショパンの解釈は何通りもあるから、コンクールではなくフェスティバルやフォーラムのように世界からピアニストが集まり、それぞれが解釈したショパンを披露しあう場だと感じていると話していたことを改めて思い出した。
私はOsokinsのショパンも角野のショパンも、それぞれ味わいがあると感じた。それぞれを10回以上聴いて気づいたこともあった。
角野のショパンは大きなホール(演奏の感想はこちら)で聴いたことがあり、彼はショパン以外のクラシック、他のジャンルも変幻自在に弾きこなせる音楽家なので、私の中では角野の"すごい"イメージが出来上がっている。
今回の演奏は見たことがないほど緊張しており、彼の本領が発揮されていないのではないかと最初は思った。でも何度か見直すうちに、私が複数の文献で知るショパンと重なって見えてきた。ショパンは祖国で音楽活動を続けられなくなり、20歳で国を離れ、その後一度も祖国に戻ることができないまま病に伏し39歳と7カ月の短い生涯を終えた。ショパンは亡命後も常に祖国を想い、祖国のためにできることを考えていた。祖国のために音楽活動で戦った革命家だ。病弱だったことも知られているが、祖国への想いは人一倍大きく、そのために身を挺して行動した熱い人間だった。そういう難しい時代に生きたショパンに寄り添うというのは現代の若者にはなかなか難しい話だ。でも角野の演奏はそんな革命家ショパンの心の葛藤に寄り添っていたように感じた。真剣に寄り添おうとしていたから、あんなに震えてしまったのだと思う。それでも出せる力を出して演奏を終えられたと思う。
いうなれば、角野も現代に生きる音楽の革命家だ。幼い頃からクラシックをやってきたが、途中クラシックから離れたこともあり、音大でクラシックを学んで来た訳ではない。ショパンコンクールに出場する他のピアニストのように国際コンクールでの経験もそれほど豊富ではない。でも彼はクラシック以外のジャンルも弾きこなし、時に複数の楽器を駆使する。アレンジや即興も得意である。そんな多彩な才能に溢れる角野だが、クラシックを続けたい、ショパンを学び続けたいと考えて今回ショパンコンクールに挑戦した。1年延期されたことで角野を取り巻く環境も激変するなか、ショパンに向き合ってきたのだろう。
審査員は7/20の30分の演奏のみで審査を行うのは分かっている。でも、角野のショパンの解釈、演奏が審査員の心の琴線に触れたことを願い、現地時間7月23日夕方の結果を待ちたい。本選で再び角野のショパンを聴く機会を楽しみにしている。
【参考文献】
(上記注釈の曲の紹介部分は以下を参照)
音楽家の伝記 はじめに読む1冊 ショパン、YAMAHA、2020年
小坂裕子著、新装版フリデリックショパン 全仕事、ARTES、2019年
イリーナ・メジューエワ著、ショパンの名曲、講談社現代新書、2021年