駄菓子界の帝王が決まりました。
突然の告白で申し訳ないが、今しがた駄菓子界の帝王が決まった。
「ポテトフライ」である。
物事を断定的に言い切ることが良しとされる近年の風潮をあまり好まない僕だが、これだけはハッキリとさせなくてはいけない。
白黒つけて、長きに渡って繰り広げられてきた不毛な議論に決着をつけなくてはならないのだ。
駄菓子、それは少年少女の心を鷲掴みにした罪深きお菓子。
甘いものから塩辛いものまで豊富なフレーバーを取り揃え、形や色もよりどりみどりな数多のお菓子がここ日本には、在る。
これだけの種類があれば、当然「どれが素晴らしい駄菓子か」という争いの種も生まれてくることであろう。
その種は子どもたちの好奇心を媒介とし生成された培養土に植わり、いつの間にか見過ごすことができないほどの根を、草木を生やしてしまった。
もはやこれは僕だけの問題ではない、そうだろう?
駄菓子屋のおばあちゃんの顔を浮かべ、いつまでもノスタルジックに浸っている場合ではないのだ。
日本の良き文化であり、そしてそれが過去のものとなりつつある駄菓子を守るべく、我々は後世に残すべき駄菓子を厳選し、時代遅れという災厄から避難するノアの方舟に乗せなくてはならない。
さて、ということでポテトフライが帝王なのは火を見るよりも明らかなことであり、もちろん方舟乗員のシード権を得ているワケだが、「いきなりそんなことを言われても意味がわからないよ」と喚き散らすシンジ君もいるだろう。
そもそも、僕たちは駄菓子という食べ物に何を求めているのだろうか。
味、それも重要だろう。しかし本質はそれだけではない。
あなたが小学生だった時のことを思い出してほしい。
僕たちの娯楽は一体何だっただろうか。
サッカー?野球?ゲーム?
否、否、否ァ!!!!!
駄菓子である。
僕たちの少年時代は駄菓子を中心に回っていたのだ。
「違う、そうじゃない」と青筋を立てて憤慨するのも無理もない。
子どもの頃の記憶とは、実に曖昧で移ろい易いものだ。
この世界が5分前に創造されたという仮説があるように、子供の頃にサッカーや野球が好きだったと思い込んでいるのは、実のところただの虚像なのだ。
現実は駄菓子だった。
僕たちは駄菓子を中心に生きていた。これは紛れもない事実なのである。
話が脱線した、続けよう。
さて、駄菓子を評価するには4つの要素がある。
見た目、価格、味、そして遊びごころだ。
4つの要素をそれぞれ評価し、それらを総合して駄菓子の成績が決まる。
まず見た目から説明していくが、端的に言えばその駄菓子を見て「ワクワクするかどうか」が評価基準になる。
そしてここが重要なのだが、必ずしも「美味しそう」に見えるのが正義ではない。
「美味しそう」だけで論じれば、大人の僕たちは誰しも「おやつカルパス」を手に取り貪ると思うが、子供のウケは存外悪い。
そう、彼らの目にはカルパスよりも先に、気味悪く頬を吊り上げる怪しげなパンダが映るのだ。
想像力が豊かな子どもは、奇怪なパンダが抱える赤色の鮮やかな肉を見て「これはきっとヒトの肉に違いない」とのたうち回り、発狂し、泣き出す。
そんなカルパスという名の人肉を貪っている我々を見たら、この世の残酷さに絶望し悲しみに打ちひしがれることだろう。
次に価格。これも非常に重要な要素だ。
子どもの小遣いはたかが知れていて、満足に外食をすることすら難しい。
そこで駄菓子という救世主が登場し、僕たちは手の中に数枚の小銭を握りしめ、鉄臭くなった手で商品をベタベタと触り吟味する。
100円...50円...30円...
駄菓子は安ければ安いほどたくさん買えて、長く楽しめる。
気の知れた仲間との下校時間を1秒でも長く延長するために。
好意を寄せているあの子の笑顔を1秒でも長く見るために。
唯一の娯楽である駄菓子を1秒でも長く、長く、長く味わうために。
するとどうだ。
子どもたちは頭をフル回転させて費用対効果を考え、ランドセルから取り出した算盤をバチバチとかき鳴らす。
眼鏡っ子は火を起こす勢いで眼鏡をクイクイと摩擦させ、頭の後方には四則計算の数式が飛び交う。
もはや吟味の時間すら快感に変わり、「もしも100万円あったらうまい棒が何本買えるのか」などとファンタジーの世界に飛び込む童もいるそうだ。
世界的に見て日本人が数学や創作に強い所以は、こういう何気ない日常に隠されている。
また味。
とどのつまり、「美味いかどうか」だ。
しかしその重要度は他の要素に比べれば遥かに低い。
これには理由があり、単純に日本の駄菓子は良質なものが多いからだ。
美味い不味いという二元的な判断と言うよりかは、ほとんど好みの問題と言って差し支えないだろう。
そして今まで述べてきた要素の中で最も重要かつ評価基準が複雑なもの、それが遊びごころである。
駄菓子というのは「最小限で、最大限の楽しみを。」がコンセプトであり、各メーカーはこれに準ずるように日々頭をこねくり回し、商品を生産している。
そしてその遊びごころを体現した最たる例が、「ココアシガレット」だ。
タバコに模した細長く甘い棒。
ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でもないシンプルな駄菓子。
しかし世の子どもたちは、そのただの甘い棒に大量の金を投じる。
甘い棒の先端を咥え、指をチョキにして「スーハー!スーハー!」と荒々しく吸引するのだ。
そう、彼らにとってココアシガレットとは、喫煙と同義なのである。
法を犯すというただならぬ背徳感が、彼らの心をこれでもかというほどくすぐり散らかすのだ。
未成年、少年法、犯罪、中毒、世間体、親、指導......
考えただけでも恐ろしいタバコの喫煙から想定される不安の種を、ココアシガレットは全て解消してくれる。
駄菓子唯一の合法ドラッグにして遊びごころの頂点、それがココアシガレットなのだ。
ちなみに味はスースーしているため総合評価は悪い。
さて、以上の要素の評価基準を踏まえた上で、本ブログの1行目に戻って話をしたい。
駄菓子界の帝王は「ポテトフライ」に決まった。
ポテトフライは、フライドチキンの味がするポテトチップスが4枚入った商品である。
価格は40円。一枚あたり10円だ。
「ふざけるな、何が帝王だ」と血眼で怨嗟する読者もいるだろうが、最後まで話を聞いてほしい。
ポテトフライとは、そう...
たまらなく猛烈に激烈に天地がひっくり返るほど悪魔的に美味いのだ。
「非常」という言葉の類語を「美味い」の前に10000個置いても許されるくらい美味い。
分厚くて大きく、モニュメントバレーを彷彿とさせるポテチ。
しかし一口噛めば、その大きさとは裏腹にサクッと軽い食感。
たちまち口内に押し寄せてくるチキンの香ばしく濃厚な旨味。
どの駄菓子、いや、どのポテトチップスよりも美味い、それがポテトフライだ。
ハッキリ言って見た目、価格、遊びごころは皆無である。
謎のキャラクターが印刷された、ワクワク感ゼロのパッケージ。
1枚10円のふざけた価格設定。子どもの涙は赤色だ。
遊びごころ?すぐに砕け散るこのジャガイモでどうしろと?
しかしその分、味のパラメータだけが異様に斗出しているのだ。
味だ。味だけはチャンピオンだ。
全ての要素で平均以上を勝ち取る秀才よりも、弱点は多くあるが1つの要素だけは世界一であればどうだろう。
その人物は、秀才をも超える。
むしろ1枚10円であるリッチな駄菓子が、ココアシガレットを取る子どもの手を止め、誘惑する。
うまい棒4本分に相当する駄菓子なんてどれほど美味いのだろうか、と。
一度こうなってしまったらもう抗えない。
可愛らしいキャラクターの目が怪しく光り、その手はたちまち吸い込まれていく。
たまらず袋を開ける。黄金色に輝く4枚の大判。
ひとつ手に取る。10円の重みにしてはやけに軽い。
口に運び、咀嚼する。
サクッーーー
ーーー卒倒。
それがポテトフライだ。
ポテトフライを崇め、奉れ。