10月6日(日)

スタバに来ている。結局、来てしまった。なるべく来ないようにしていたのだが。でも文章を書くならやっぱり家にはいないほうがいい。べつにスタバでなくてもいいのだけど、深夜までやっているカフェはここしかない。

眠い。といっても、もう午後六時過ぎだから眠くなること自体は自然といえば自然だ。でも、おれは今日まだ何もしていない。そういう思いがあって、カフェインを摂ってでも眠気に逆らいたい気分だった。普段ならなるべくコーヒーは夕方以降には飲まないようにしているのだけど。

二週間ほど続いていた咳は治まって、体調は確実に良くなっている。でも今朝目を覚ましたときの体の感覚はぐったりしていて、ああ、まだ本調子じゃないんだと感じた。

そういえば、今朝は緊急地震速報の音で目を覚ましたのだった。目をつむりながら揺れが来るのを待っていたのだが、しばらくしてスマホを付けると画面に「訓練」の文字が見えた。だが、そもそも初めから避難しようなんて気はない。眠気が強くてそれどころではなかった。

今朝は久しぶりに夢を見た。詳しくは覚えていないけれど、私は小学生の頃に戻っていて、当時の友人たちと一緒にいた。彼らは楽しそうに楽器を手に取って演奏をしはじめる。私はあわてて家に戻り、ハーモニカを吹いてそこに加わろうとする…そういう夢だった。

そういえば、最近は高校の頃の夢をあまり見なくなった。大学受験に失敗して高校三年生を永遠に繰り返す夢。調子が悪くなるとよく見ていた。もしかすると、先月放送大学を卒業したことで、私の中の何かが成仏したのかもしれない。

そんな風に夢と現実がリンクしているのだとしたら、私の中にはきっとまだ成仏しきれていないものがいくつも眠っているだろう。私が眠っているときに、それらは目を覚ます。そして私が目を覚ますと、元いた場所に隠れて見えなくなってしまう。

子供の頃、「オモチャや人形は眠っているとき動いているんだよ」と言われたことがあった。まさかとは思ったが、もしかしたらそういうものかもしれないとも思った。寝ている間のことは確かめようがない。サンタクロースの存在を信じていたように、目に見えないお化けや幽霊のようなものの存在もまた身近に感じられたのだった。

夜の闇にどんなものが隠れていようが不思議ではなかった。暗闇というのはただそれだけで恐ろしかった。いつからだろう、深夜まで起きていても平気になったのは。

九時以降もテレビを見ていると、祖父に厳しく怒られたものだった。その怒りはいつも同じパターンで繰り返される。最初は白々しく「勉強はしたのか」等と声をかけられる。その後も祖父は何度か様子を伺うように訪れては去り、やがてそのときが来る。怒りは爆発的で、地元の方言で言うと「ごっしやける」というような表現になる。何かが弾けるように顔が裂け、内側から狂気が溢れ出す。

いま思うとかなり不当だったと思う。というか当時からそう思っていたので、子供なりに理不尽を感じていた。

激昂する祖父は最初こそ恐怖の対象だったが、いつしか嫌悪すべき悪の象徴、十代の終わり頃には嘲笑の対象ですらあった。私が生意気だった面ももちろんあるだろうが、それにしても祖父の感情の発露の仕方は異常だった。そこには祖父の生い立ちというものも関係性しているのだろう。

祖父がどんな言葉で私を怒り、私はどんな風に反抗したのか。今となっては不思議なくらい記憶が薄くなっている。うるせえとかクソジジイとか言ったのだろうか。覚えていない。しかし家族という最も身近な集団の中に祖父のような人物がいて、彼とたびたび衝突したという事実は、私という人格を形作る上で確実に何かの影響を与えたと思う。

癇癪持ちの祖父は、家族の中では人格的に問題のある人物として扱われていた。少なくとも子供の私はそう感じていた。しかし、家長としての権威はあり、同居する祖母も父も正面切って祖父に意見することはしなかった。というかほとんど会話がなかった。まともに顔を合わせることすらなかった。

祖母も父も、祖父を愛してはいなかった。と思う。祖父はどうだったのだろう。わからない。ともかく家のなかには「祖父」対「祖母・父」という構図が出来上がっていて、子供の頃の私はその緊張関係を前提にして生きなければならなかった。

当初、私は孫として家族のなかでも例外的に祖父から可愛がられていた。祖父からすれば男児だったことも重要な要素だったのだろう。古い時代の発想である。同じく孫である姉は、私ほどには可愛がられなかった。子供心にそういう扱いの違いを感じながら、私は家族のなかで唯一祖父と親しく交流していた。

しかし、その関係は次第に冷え込んでいくことになる。いつからか、私は祖父から向けられる過剰な愛情のようなものを鬱陶しく感じるようになっていった。そして、父・祖母・祖父の間に横たわる冷戦のような構図に勘付くようになると、私は明確に祖父を切って父・祖母側につくようになった。

それは、ある種の生存戦略のようなものだったと思う。暴力的な祖父の不正を責めるようでいて、自分のポジションを守るための打算が働いていた。だから同時に罪悪感のようなものもあった。私は父や祖母と一緒になって祖父の陰口を言っていたが、同時に祖父を不憫にも思っていた。だからさらに年を経ると、私の怒りの矛先は今度は父や祖母へと向かうことになっていくことになる。

ともかく、子供として経験する家族とは私にとってそういうものだった。血の通った温かい関係。もちろんそういう面もあったが、同時にそれぞれの利害や感情が複雑にもつれ合う不穏な気配も漂っていた。私にとっては、私自身の人生について考える前に、父・祖母・祖父という私より一つ上の世代が抱える問題のほうがまず目に付いたのだった。

そういうなかで抱えることになった私の中の歪みのようなものは、二十代の頃に噴出して、ほとんど膿を出し切ったと思う。

父とは何度も衝突したのち和解した。祖母とも他界する前に関係性の結び直しのようなものがあった。祖父は今、認知症になって施設に入っている。老いた祖父にはもう、どこにも攻撃性のようなものはない。

完全な家族なんていない。誰しも多かれ少なかれ自分の生まれ育った家族に何かしらの複雑な思いを抱えているものだろう。だから、自分の生い立ちについてこんな風に語るのは野暮なことだとも思う。でも、自分自身について書こうとすれば、やはり避けては通れない。

私は幼少期に母と兄を亡くしている。それらは分かりやすく不幸で、だからこそ余計な先入観を与えてしまう。子供の頃から他人にはなるべく話さないようにしていた。私にとってはそもそも物心がつく前の出来事で、母の記憶も兄の記憶もない。だからそれが不幸なことなのか、悲しいことなのかも分からなかった。今もよく分からない。

死はタブーとされている。日常の中で隠されている。私だって、もし誰かから今書いたような話を打ち明けられたら、面食らってしまうだろう。死について語るとき、日常生活で人と人とが会話するときのものとは、まったく違う言葉が必要になる。

そういう言葉は、自分の心の内側の静かなところに入っていかないと、すくい上げることはできない。誰も代わりはできない。たった一人で入っていかなければならない。文章を書くということは、そういう場所に近づいていくための一つの手段でもある。