9月18日(水)

日々いろいろなことを思って生きている。だがもちろん思ったことの全てを口に出せるわけではない。思ったことをなんでもかんでも口にするべきではないということくらい常識的に考えて知っている。じっと黙って考える。考えて消化する。そういう時間が必要なときもある。

とはいえ黙ってばかりもいられない。自分の内に溜め込んだものは、なるべくどこかで放出したほうがいい。溜め込んだ思いは消えて失くなるわけではない。伝えられなかった言葉や、なかったことにしようとした感情は、それ自体として外に現れることはなくても、なにかしら別の形で表に出てきてしまう。表情の歪みだったり、態度のぎこちなさだったり。表層だけ取り繕っても隠し通せるものではない。無理して隠そうとすると、今度は身体が反発して、下手をすると体や心のバランスを崩すことにもなる。

感情は抑え込んだつもりでも、思わぬところで自分の意図しない形で出てきてしまう。だったらある程度自分のコントロールの下で出したほうがいい。経験上そのほうが自分にとっても他人にとっても不幸な結果を招きにくい。だから今もその一環としてこうして日記なんかを書いている。

だが繰り返しになるけれど、だからといって思ったことをなんでもかんでも書くわけにもいかない。じゃあどうするか。

「愚痴を言う」というのが一つの選択肢だ。親しい人、信頼できる人、気心の知れた人に自分の話を聞いてもらう。それが最も手軽で、一般的で、効果のある処世術だと思う。たぶん人は古今東西そうやって生き延びてきたんじゃないか。その場にいる人と、その場にいない人について、あれこれ言う。たいていは悪口を。本人の前では直接言えないことを本人のいないところで言う。好き放題に言う。こう書くとなんだか醜悪だなあと思うけれど、誰だって聖人君子ではいられない。陰口は良くない。そんなことは小学生でも分かっているけれど、人はどうしようもなく陰口が好きだ。

愚痴と陰口に本質的な差なんてない。極論かもしれないけれど、本人のいないところで良かれ悪かれその人について何か言及したら、実質それはもう陰口とほとんど変わらないのではないかとさえ思う。本人に対して伝えるべきことを本人以外の人に言っている。ある人について何か思ったことがあるのなら、本来それは、その場でその人に対して伝えるべきで、後から他の人に伝えても仕方がない。

愚痴も陰口も、言えばたしかに一時は溜飲が下がる。でも問題の本質的な解決には結び付かない。本人に伝えない限り同様のことが繰り返される。だから愚痴を言う人はいつも同じ愚痴を繰り返す。本気で状況を変えようとしていないから。

というわけで、愚痴を言うのはやはり人として望ましい姿とは言えない。ある意味では、生きるためには仕方がないこと、必要悪のようなものかもしれないけれど。

そこで、「発散する」という第二の選択肢が出てくる。発散とは何か。現在問題となっている事柄とは関係のない行為に打ち込むこと。カラオケ、ジム、ジョギング、スポーツ、飲み会。酒を呑んだり、体を動かして汗を流したり、大きな声で歌ったり。そうすることで心が晴れ晴れとするなら、愚痴や陰口を言うことよりはるかに健全で、望ましいように思える。

実際、私自身、最近は趣味の卓球サークルの存在に助けられている。卓球をしている間は、それ以外のことを考えなくていい。以前はギターで、その前は将棋だった。それらはいずれも一人でしていたが、趣味を通じて交流することは取り組みへのモチベーションを高める。

仕事と家庭以外にコミュニティを持つこと。その大切さについては、前々からずっと考えてきたことではあった。しかし二十代の頃は、関わる人の範囲を無意識に限定しすぎていた気がする。自分と波長の合う人を狭く考えすぎていたというか、波長の合わない人に対して拒絶するのが早すぎたというか。大袈裟な言い方をすると、人生というものに対して自分とどこか似たような感覚・問題意識を共有している人、少なくともそう思える人…でないと、心を通わせることはできないと思い込んでいたような節があったのではないか。他人と関わるときにまずお互いの「価値観」が問題になっていた。

三十一歳にもなった今、他人と価値観や人生観について語り合う機会なんてほとんどない。大学生の頃のおれはどうしてあんなに人生観について考えてばかりいたのだろう。そして、それを出会う人出会う人にぶつけてばかりいたのだろう。今となっては不思議でしかない。

その代わり、今のおれには何があるのか。趣味がある。今のおれには趣味が。

こう書くと、なんというか、堕落したような感じがする。社会に順応して自分の信念を曲げたような。世間に迎合して本質的なことから目を逸らしているような。そしてそれは実際そうなのだと思う。ある種、私は悩める青年としての高潔さのようなものを失ってしまった。その代わりに、世間と上手く付き合うための狡知のようなものを身に付けはじめている。それは世界の本質を覆い隠し、心の深淵に蓋をし、真実の人生から遠ざかることなのかもしれない。でもそうすることで私はある意味、何かにつけて深刻になって悩んでばかりいた二十代の暗黒期を終わらせることができた。

今はきっとそれでいい。二十代は何かとシリアスに考えすぎた。三十代はもっと気軽になりたいと思う。「なんのために生きているのか」なんて問いをいちいち自分の胸に突きつけて深刻に悩んだりしたくない。思うままにやりたいことをやっていきたい。その自由を、今やっと手にしているとも思う。

でも同時に、きっといつかはこのままでは立ち行かなくなるときが来るような気もしている。たぶんもう少ししたら。いわゆる中年の危機のような形でまたいつか自分自身と向き合うときが来るのではないか。今日はうっすらとそんなことを考えていた。

休日に今の自分がやっていることは「発散」でしかない。愚痴を言っていないだけマシかもしれないが、結局、向き合うべきことに向き合っているわけではないように思う。向き合うべきこととは何か。それは「自分はどう生きたいのか」ということだ。そういう青臭い問いを、この辺りでもう一度おれはちゃんと考え直さなければいけないのではないか。そんな気がした。

自分が本気になれること。本気になって自分の力を注ぎたいと思えるものは何か。

おそらく多くの人にとって、それは家族ということになるのではないかと思う。自分の家族を作ること。すなわち結婚。そういう話になってくる。

二十代の頃は「仕事」をしていないことで世間から冷たい視線を浴びた。三十代になってそれが「結婚」になった感じがある。結婚しているのが普通、結婚していないのは異常。そこまで直接的ではないが、いろいろな他人と話をしていると、結局はそういう視線を感じることになる。地方に住んでいると、とくに。

最近ほんとうに他人から「結婚しないの?」と訊かれることが増えた。鬱陶しくはあるが、今となってはべつにそれにいちいち動じたりはしない。もやっとすることすらなく、ただ適当に受け流している。

よくよく考えてみると、こういうのに似た状況って昔あったよなあ、と思った。小学校高学年の頃だ。

小学五、六年生の頃、周りの同級生たちが一斉に色気付いて次々とカップルになっていったタイミングがあった。私は、いつも適当に楽しく遊んでいた同級生が、いつの間にやら彼氏や彼女を作っていく状況に、どのように反応していいか分からなかった。周りの人たちが知らぬ間に大人になっていく。「あちら側」に行ってしまう。自分だけが取り残される。

あのときと今の自分は、もしかすると似た状況に置かれているのかもしれない。寂しいというわけではない。でも、結局おれはあの頃から何も変わっていないのかもしれないなとなんとなく思う。

小学生の頃の私に、好きな子がいないわけではなかった。しかしそれは、本人にはもちろん親しい友人にも話さなかったし、察せられてもいけないことだと思っていた。自分が誰かを好きになる。そんなことはありえないという顔をして生きなければならないと、当時の私はなぜか強く信じ込んでいた。なぜだろう。自分でも分からない。

大人になって、何人かの人と付き合う機会にも恵まれたけれど、それだってよく考えたらそのことを自分から第三者に話したことはない。たぶん一度もない。なぜだろう。だが昔からそうだ。

でも結婚って、よく知らないけど、「私はこの人と付き合ってますよ」と公に表明することのような気がする。だからおれはピンと来ていないのだろか。そんなことしたことないから。