サイゼリアにて
◎11月7日(木)
サイゼリアに入る。客席は高校生ばっかり。都会の高校生は、放課後をいつもこんな風に過ごしているのだろうか。おれなんて、二十歳を越えて初めてファミレスに入ったんだぞ。厳密に言うと、二十一歳のときに大学で知り合ったI君に「ちょっと話そうよ」と誘われてマクドナルドに入ったのが初めてで、よく考えたらファミレスですらなかったぞ。ファーストフード店に家族以外の誰かと入ったのがそのとき初めて、というか、そもそも誰かとどこかで外食するということ自体が初めてだったんだなあ、と、今になって気付く。
ミラノ風ドリアを食べ終えて、マルゲリータピザを食べ終える。ほんとうはドリアだけで終わるはずだったのだが、店内は満席。店先でお客さんが列をなして待っているのに、ドリア一つだけ食べて居座るというのでは、さすがに大人としてどうなのかと、めずらしくそんな気持ちが働いて、慌ててピザを注文。ぺろっと食べ終える。腹の足しにもならない。
今の私ならきっと、このメニューに載っている料理すべて平らげられる。いつかお金持ちになったら試してやろう。とかなんとかって、そんな会話はこのサイゼリアですでに何百回もされているのだろう、か。分からない。いまどきの高校生はいったいどんな会話を友達とするのだろう。店内のあちこちからもうずっといろいろな人たちの話し声が聞こえ続けているけれど、いくつも重なり合っていて何が何だか分からない。雑多にさまざまな声が混ざり合う。音って、混ざり合うと聞き分けられなくなるんだよなあ。いろいろな音が重なり合って、ひとつの大きな塊のようになっている。塊が店の中で膨らんだり縮んだりしている。
いま、それぞれがまったく別々の会話をしているわけだけれど、全体として聞いたときに、それが一つの音楽のようなものになって聞こえてきたらおもしろいのに、と、ふと思う。隣の席に座っている女子高生三人組の会話と、店の入り口で待っている若いカップルの会話と、オーダーを取っている店員さんの声。それぞれが合わさって和音になる。一つの調和した音楽のように聞こえてくる。そういうことって、あるのだろうか。私は絶対音感でないから分からないけれど、たまたま聞こえてきた音が重なって、心地よい気分になることは稀にある。そういうことが、例えば、今いるこのファミレスなんかでも起こったりしないものだろうか。
カン、という、竹の割れる音が好きだった。夏になると、実家の裏の雑木林に生える竹が日に照らされて乾燥し、ときどき割れる。そのときに鳴る乾いた音は人気のない住宅街によく響いて、耳に心地がよかった。竹の割れる甲高い音。風で笹の葉が揺れる音。それから、鈴虫の鳴き声。それぞれがよく調和していて、全体として、なにか、一つの大きなムードのようなものを作り出していた。私はそのムードのなかで、茹だるような蒸し暑さを恨んだり、何事もなく終わっていくだけの夏を寂しがったりしていたのだった。
店を出る。冬、華やかなコートに身を包んだ男女が街を行き交う。もうすっかり寒くなった。今年も終わっていく。