6月28日(金)

眼科に来ている。何年ぶりだろう。普段コンタクトレンズを付けているのだが、わざわざ病院で処方してもらわなくてもネットで安く購入できることを知ってから、もう何年も同じメーカーの同じ度数のレンズを買いつづけてきた。直接眼に触れるものである以上、もっと繊細になってもよかったはずなのだけれど、惰性でそのままになっていた。

コンタクトレンズにして何年になるだろう。高校生の頃はメガネをかけていた気がする。問診票には十五年と書いた。もはや憶えていないので適当に書いたけれど、でも、もしかしたらほんとにそのくらいはあるかもしれない。少なくとも十年以上あるのは間違いない。

二十代の頃はとにかく金がなくて、身体や健康のことなんか一切考えずに適当に過ごしてきたけれど、三十代に差し掛かってさすがにそれもどうなのかと思いはじめている。自分を定期的にメンテナンスすること。車検に七万も払ったのだから、自分自身にももっとお金を使うべきなのではないかという気がする。

でもなんか、もしかしたら生きる目的とかそういうのが希薄になってきたから、今になって急に健康が大事とか言いはじめているのかもしれない。他にやることがないから、他に考えることがないから健康のことに意識が向く、みたいな感じで。

いやそもそもおれに生きる目的が明確だったときなんてあったのか。ない。二十代の頃はそういう抽象的なことを考えるのにエネルギーを費やしすぎて、身体は元気でも精神的には大変なときが多かった。いまのほうが精神的には元気だ。年々元気になっている。

先日、31歳になった。自分が三十代であることに徐々に違和感がなくなってきている。29から30になるときはいろいろ思ったけれど、30から31になるときはあっさりしていた。こうやって年齢に対する自覚は、実年齢より少し遅れて追いついて来るものなのかもしれない。

視力検査の結果、今まで使ってきたコンタクトレンズの度数が、実際の視力とかなりズレていることがわかった。強すぎるレンズを使っていたとのこと。「これだけ強いと、遠くはたしかにクリアに見えるかもしれないけれど、近くは逆に見えにくかったはずです」と言われた。そんな自覚はまったくなかったのだが、眼科が言うならそうなのだろう。来てよかった。

検査後、コンタクトレンズの正しい度数を教えてもらった。安いから眼科よりネットで注文した方がいいですよと言ってくれた。ありがたい。親切で感じのいい人だった。

自分でも自分のことがよく分からない。そういうものだと思う。でも、視界の見えやすさなんてかなり大きなことのはずなのに、そんなことさえ分からなかったとは、自分でも自分の鈍感さに驚く。いろいろな面で他人より無頓着な方だとは自覚していたけれど。

繊細か、鈍感か。神経質か、無頓着か。こういう人間の性質って二項対立的に捉えられがちだ。きまじめか、ひょうきんか。厳格か、温和か。努力型か、天才型か。ほかにもいろいろある。

実際は、人間のタイプをそんなに単純に分けられるはずがない。当たり前だけど、人間にはいろいろな側面がある。いろいろな、というか、掘っていけばどこまでも掘り下げていけるような無限の可能性が、もしかしたらどんな人にもあるのかも知れない。

でも普段はそんな風に自分や相手を深く掘り下げるなんてことはしないし、する必要もない。自分も他人も「こういうものだ」と決めつけることによって、ある種、生活しやすくなっている面がある。ある意味では人間というものの実態をちゃんと見ないことによって、当たり前の暮らしを維持している、という風にも言えるのではないか。

地球には数えきれないくらいの人がいる。いくらインターネットが発達して世界中の情報がいつでも大量に見られるようになったとはいえ、一人の人間が意識を向けられる範囲は有限だから、どうしたって扱いに差は出てくる。ちゃんと関わりたい相手、当たり障りなくやり過ごしたい相手。そもそも同じ地球、同じ国、同じ地域に住んでいるということさえ知らずに生きている人が膨大にいる。一人一人とがっぷり四つに向き合っていたら身が保たない。だからラクをする。自分や相手をシステム化する。関わり方を固定化する。それは生きる知恵だ。でもそればかりやっていると心が荒んでくる。心の中の泉が干上がってしまう。

「枯れない泉」というキリンジの曲がある。どんな冷血漢でも、心の中の泉が完全に干上がってしまったわけではないと考えることができたら救いがある気がする。分かり合える何かがあると信じられたら、希望がある気がする。どんなに深く砂に埋もれていても、掘り返したらまた湧き出てくる。そういう泉がどんな人の心にもあると信じること。

そのためにも、日頃からまずは自分の泉をメンテナンスしておくことだ。溜まった泥を取り除き、周りの雑草を抜いておく。

そういえば家の庭の雑草がすごいことになっているのだった。抜かないといけない。