8月7日(水)

スタバにいる。どうしておれは今日もスタバにいるのだろう。ほかに行くべき場所がある気がするのに、ほかにやるべきことがある気がするのに、どこへも行く気にならない。何もやる気にならない。

そのくせ、レジの店員のやる気がなくてちょっとムカつく。アイスコーヒーを注文した後に「ホットかアイスどちらがよろしいですか?」と尋ねてきたり、グラスで飲みたいと思ったのにカップで提供されたり、コミュニケーションが微妙に噛み合わない。

でも、そういうことってよくあるよなあ。おれだって似たようなことを他人にしているのかもしれない。というか、そもそもコミュニケーションなんて噛み合わないことのほうが多いのかもしれない。おれが狭量なだけか。でもだとしてもおれはこの店員を愛せそうにない。まあべつにどうだっていいのだけれど。

いつも座っている座席のテーブル。その陰になっているところに、じつはコンセントが付いていたことを発見して、ちょっと驚く。今まで、入店してすぐパソコンの充電がないことに気づいて仕方なく帰宅したことが何度かあったのだけれど、そんなことをする必要はなかったんだなあ。なんとなく損をした気分になる。

損をした気分と言えば、この間買ったキッチン用のマットの長さが微妙に足りなくて、もうワンサイズ大きいモノを買えば良かった、と、さっきまでひとりで悶々としていた。買い足すと1500円くらい掛かるが、ワンサイズ大きいモノを買っていたら500円くらいの出費で済んだ。1000円の無駄。キッチン用マットなんて必要かどうかもよく分からないモノのために、1000円も無駄にするなんて。

我ながらケチくさいと思う。自分でもイヤになるくらいケチくさい。でもおれの頭はもうすでにそういう思考回路に支配されている。

世間では株価がうんたらと色々話題になっているみたいだけれど、投資って自分にはもっとも縁遠い世界だなと思う。ケチなおれには向いてない。なんかNISAとかやった方がいいのかなと思わないこともなかったけれど、結局やってない。


顔を見上げる。壁全面がガラス張りになっていて、そこにカエルが何匹か張り付いている。ああ、いるなあと思う。いるなあ。

カエルの手前、トレーを持った店員の姿が視界に入る。店員が窓際に座っている客になにやら話しかけている。トレーにはカップケーキみたいな小さなお菓子がいくつも乗っている。客に試食を提供しているのだろう。カップケーキを手渡す店員と、受け取る客。なにやら笑顔で談笑している。ひとしきり会話が終わると店員は席を離れて別の客へ向かう。私の隣の席だ。客はお菓子を受けとる。イヤホン越しに「シュガードーナッツ」という単語が聞こえてきた。カップケーキではなかったらしい。次はおそらくおれだろう。来るぞ。来る。

店員がこちらを向く。何かを話しかけている。片耳だけイヤホンを外す。「コーヒーのお供にお召し上がりください」「作業中のところ失礼しました」と声を掛ける店員。おれは軽く会釈だけして、目も合わせず、差し出されたドーナツの一片を受け取る。イヤホンを付け直す。それから店員は私の右隣の客に声を掛け、同じ様にドーナツを渡す。

ふと、さっきの店員が、商品の受け渡し口のそばで無為に時間を過ごしている様子が視界に入る。仕事中なのだろうか。カウンター内で忙しそうに働く店員に私語で話しかけているが、彼がどうしてそんなことをしているのか意味がわからない。まあもういいのだけど。


こめかみの辺りがいつもより少し重たい気がする。気がするだけだが。でも疲れてはいるのだと思う。身体的というより精神的に。今日も昼過ぎまで寝ていた。先月末から忙しい日々が続いている。

気分転換に絵でも描こうと筆箱を開くが、肝心のペンが入ってない。代わりに鉛筆で描いてみるが、飽きてすぐやめる。

郵便受けに入っていた自動車の任意保険の更新手続きの案内を開く。来期の契約料は45900円とのこと。高い。明らかに値上がりしている。なぜ。事故ったわけでもないのに。初年度は26000円くらいだった気がする。他の自動車保険の見積もりを調べてみる。35000円くらいだった。変更した方がいいじゃん!でもどうやって変更するんだ。今の保険を解約して、新しい保険に契約し直すのか。めんどくせえ。そんなことをするために生きているわけじゃねえんだみたいな気分にすぐに陥る。もうやめてくれ。休日くらいチマチマ金の計算をする思考回路からおれを自由にさせてくれ。


気が付いたら外が暗くなっている。ガラス窓に映る外の景色は、夜になるといくらかマシだなと思う。昼間は駐車場の車とチェーン店の看板しか見えず殺風景そのものだった。でもそういったこの世的なものの雑多さは、夜になるとほとんど闇に包まれて見えなくなる。雪と同じだなと思う。雪の唯一の良いところって、初雪のときに見慣れた景色を一瞬だけ幻想的に見せてくれることだ。雪が懐かしい。

店員との噛み合わない会話とか、自動車の任意保険の更新手続きとか、そういう世俗的なことだけじゃないもっと広い視点で、もっとフラットな目線で世界を感じたいのだけれど。

いまのおれは狭すぎる。生きている世界があまりにも狭い。自分の知っているモノしか存在しない世界。知っていることだけしか起こらない世界。そういう世界にうんざりしているのかもしれない。


ガラス窓に張り付いているカエルの数が増えている。二、三匹ならかわいいなと思ったが、数が多いとちょっと気持ち悪い。何匹いるんだろう。十匹はいないと思う。だが、ちゃんとは数えたくない。視界にも入れたくない。

所詮こいつらも群れで行動しているんだよなと思う。おれはひとりだ。ひとりでスタバに来ている。

でも、カエルから見ればおれだって群れの中の一匹として見えているかもしれない。私の近くには三人、店内には合わせて七、八人ほどの客がいる。窓に張り付くカエルとほとんど同じくらいの数だ。

あのカエルたちだって、別々に生きてきた者たちがたまたま今、同じ窓ガラスに張り付いているだけかもしれない。私がこのスタバにいる客たちと、たまたまここに居合わせたというだけの接点しか持たないように。


ノドが渇いたなと思う。もう退店しようかな。

カフェにいるのにノドが渇いたなんてよくよく考えたらおかしい。でも追加で何かを注文しようなんて思わない。アイスコーヒー一杯でどれくらい粘るか。それしか考えていない。そういうところは貧しかった頃と変わらない。

とはいえ、スタバで380円のアイスコーヒーを注文することに対しては何も感じなくなっている。ケチケチしていると言ったって、いまのおれは昔と比べて明らかに経済的に余裕のある生活を送っている。そのことがある意味では自信になっているからこそ、他人との関わりもそれなりにスムーズにこなすことができている。一見すると社会に溶け込めたかのような、そういうフリをすることが。

でも、それはおれ自身の本質とはまたぜんぜん違うところの話だ。ほんとうはおれは何がしたかったのだろう。社会に適応するとか、周りの人と協調するとか、そういうことは少なくとも自分の人生の最優先事項ではなかったはずだ。

この世界をもっと瑞々しく感じられるようになりたい。少なくとも今のような自分とは違う見方で。表層的な次元ではなく、もっと深く。もっと違う視点で感じられるはずなのに、そうできなくなっているとしたら、それはどうしてだろう。何が視界を曇らせているのだろう。


世界が曇っているように見えるのは、自分が曇ったメガネを掛けているからだという類いの話がある。その通りだと思う。

疑心暗鬼になっているときは、相手のどんな行為の裏側にも悪意があるように感じられる。自分が相手を信用しなければ、自分も相手から信用されない。自分が相手に敵意を向ければ、相手も自分に敵意を向ける。自分の認知が歪んでいれば、世界も歪んで見えてしまう。そういうものだと思う。

問題は自分で自分の歪みを直すことができないということだ。歪んだメガネは、自分自身では直すことも外すこともできない。そして誰もがメガネをかけていて、どのメガネも歪んでいる。

絶対的に正しい見方があるわけではないということ。それぞれの人がそれぞれの歪み方で世界を見ている。世界の客観的な姿を見ることができる人は誰もいない。何が正しいかは人によって違う。

基本的に自分はそういう風に考えるわけだけれど、もちろんこれも私の見方でしかない。世界にはいろいろな人がいて、厄介なことに自分の見方が正しいと信じて疑わない人もいる。そういう人とどう関わるか。

相手に丸め込まれず、自分を信じ抜くこと。でも信じて貫いた自分の感覚が正しいという保証はどこにもない。最終的には、正しかろうが正しくなかろうが、結果に対して責任が取れるかという話になる。何事かに対して自分の正しさを主張するなら、仮にそのことが間違っていたとしても、最後まで関わりつづける覚悟があるか。それらはセットだと思う。言いっぱなしでは何の説得力もない。


もやもやと考え事をしていたらあっという間に時間が過ぎて、もう夜10時になろうかという時刻。だが、店内にはまだ客が何人もいる。数えると、私を含めて12人。地元にも平日の夜に外を出歩く人は結構いるんだなあ。

ちなみにガラス窓に張り付いているカエルの数は13匹だった。あのカエルたちはなんであんなところにわざわざ張り付いているのだろう。でもカエルだって人間に対して同じようなことを思っているかもしれない。なんでこんなところにわざわざ集まっているんだろうと。