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魔・境

#創作大賞2022



『魔境』

 

 風は滞留した。少し開いた窓から夜の風が流れ込んできて、桃色のカーテンを揺らしつつ、部屋の中に風は、滞留したようである。


 天井の四隅に括り付けられた濃いオレンジ色のライトの光が、机の上の黒いマグカップに反射して、白い円を描いている。テレビの上に、陶器で作られた小人たちがオブジェとして飾られている。この前の地震で、その中の一体が床に落ち、首が取れてしまったので、巨塔さんが瞬間接着剤で直してくれたみたいだ。


 巨塔さんは棒のついたアメを舐めながら、足に真っ赤なマニキュアを塗っている。巨塔さんの白くて長い足先がこちらに向いている。彼女は真剣な表情をしながら足の爪の色の出来栄えを気にしている。


 巨塔さんの腰まである長い黒髪が、膝のほうにまで降りてきてしまうらしく、机の上にあった黒いヘアゴムで彼女は髪をまとめる。巨塔さんが棒のついたアメを咥えなおすと、アメと一緒に、彼女の唾液が透明な糸を引いた。
「……お香、焚いても良いですか?」と、僕は尋ねる。
「良いですよー」


 酒に酔ったみたいな、もつれたような口調で、彼女は言う。僕は台所からサンダルウッドのお香とマッチを持ってリビングに戻り、部屋の真ん中で火を付けた。まるで護摩行のように煙たいそのサンダルウッドの香りは、空間を浄化する密教系統のエキゾチックな儀式のようにも感じられた。お香を焚く行為に深い意味はなく、もとは僕と彼女の共通の趣味だった。それから、だんだんと匂いを発生させる行為そのものが僕らの習慣となっていた。


 リビングの真ん中の、大きな幾何学模様の絨毯に、昔からこの家にある巨大なスピーカーが乗っている。そこからは静かな音量でケンドリック・ラマ―の活かしたヒップホップが流れている。


「えーぇ、うえぇー」隣の部屋から女の泣き叫ぶ声が聞こえた。ぎゃーあ、あぁー、いやだぁ、という悲痛な叫びが断続的に続いている。巨塔さんはその声を無視して立ち上がり、台所に向かう。ピーピーと音を立てるヤカンの火をとめ、彼女はアールグレイの紅茶を二つ作った。「ヤメロって、言ってんだろぉー」隣の部屋の女の叫び声は酷くなる。凄惨な叫び声は言葉として機能する形に変わり、突然終わった。
「史郎くん。様子見に行ってあげれば?」
「僕は男なので、こういうデリケートな問題は、女性である巨塔さんの方が得意でしょ」

 彼女は「うん!」と言い、僕に満面の笑顔を見せた。恐ろしい程に美しい彼女の顔面は、僕にとって宝物だった。彼女とはひとつ屋根の下に住んでいるのに、僕はなぜか、彼女に対して性的な願望を抱いたことがない。

 自分でも不思議だった。巨頭さんは「暑くなっちゃった」と言って、僕がいる目の前で突然、服を脱いだ。「じゃあ、桜子の様子見に行くから、紅茶でも持ってった方がいいかな? あの子、紅茶好きかなぁ? でもあんまり熱いと冷ますのに時間かかるからなぁ、まあ、いっか」


 テカテカと光り、無数の細かい泡を付けたアメを、再び彼女は口に入れる。

 巨塔さんがいなくなった部屋はがらんとして静かだった。窓からは依然、夜の風が吹き込んで止まない。桃色のカーテンはひらひらと揺れている。音楽は続いている。洋楽なのでラップの内容は聞き取れない。テレビの上の小人たちは、僕を見つめている。青い帽子をかぶった小人の人形……接着剤で繋がっているとはいえ、首にくっきりと付いた黒い亀裂は、痛々しくそこにあった。

 部屋の扉が開いて、下着姿の巨塔さんが現れる。
「どうでした?」
「なんか大丈夫みたい」

 アメをパリパリと嚙み砕き、残った細くて白い棒を近くのごみ箱に投げ捨てた。ごみの中には、昨日のパーティーで使った色とりどりに連なった折り紙の輪っかが捨ててある。それは大量のゴミの中で煌めく無数の宝石みたいだった。

 昨日は巨塔さんの二十四歳の誕生日だった。シェアハウスの住人の中で酒を飲むは誰一人いなかったので、静かな会だった。それと、僕らが酒を飲まないのは、隣の部屋の桜子が向精神薬を服用しているから、それの気遣いでもある。

「桜子は抱えているからねぇー」
 巨塔さんは、ライムグリーンのソファーに座った。足を組み、頬杖をついて、テレビのリモコンのスイッチを入れる。

「ねぇ、ホラー映画みない? わたし怖いの好きなの。史郎くんも一緒に見ようよー。ほら、電気消してさ、毛布にくるまって、大音量で女の子の悲鳴聞こうよぉー」

 彼女の甘ったれたような口調がとても好きだ。すがるような儚い声が好きだ。

「女の悲鳴ならさっき飽きるほど聞きましたよ。僕、ああいうの可哀そうだな、って思います。辛そうだし、何ていうの? HSPみたいに、僕の方まで辛くなります」


「桜子は夜驚症なのー、さっき聞いたら全然大丈夫だってぇー」


 巨塔さんは立ち上がる。ソファーの横の薄いブランケットを広げて体に掛けた。


「寒いなら服着たら?」
「これが良いの」


 お香が切れたみたいだ。煙たさは無く、ただ涼しい風が部屋を通り抜けるのみだった。僕がスピーカーの音楽を消すと、遠くで鳴いている蛙たちの合唱がより濃く聞こえた。

 虫たちの鳴き声と自治会の「火の用心」の声。しばしば道路を爆走する改造したバイクの音や、大声で何かを歌いながら走る通行人。断末魔のようなクシャミを張り上げる老人や、猫の喧嘩。できるだけ都心から離れた場所に物件を見つけたつもりだったが、案外、音という音から逃れることは叶わないのかもしれない。


「そのヤカン、お湯ってまだ入っていますか」と僕が言うと、巨塔さんは「あるよー。アツアツだよー、火傷しちゃうよ」と言った。台所に向かい頭上にある扉を開くと、透明な皿やグラスが整然と並んでいる。白くて網目の細かいレースの布切れが、ひらひらと僕の肩に落ちてきて、邪魔だと思ったので、正方形に畳んでから再び仕舞った。マグカップは巨塔さんと同じデザインの物を使おうと思った。深くて黒い陶器のマグカップ。これにアールグレイの紅茶を注いで優雅に飲むのだ。


「巨塔さん。僕はアナタと一緒に暮らせて幸せですよ」
「そう? それはよかった」


 彼女は笑顔になった。心の底から幸福で満たされているような、そんな嘘偽りも屈託もない鮮やかで美しい笑顔だった。巨塔さんはソファーの上であぐらをかいている。化粧を落とした彼女の顔面は、人生の何もかもを諦めたかのような、一度死んだかのような儚さがありつつ、なお存在そのものの美しさを失ってはいなかった。


 昔、桜子が何度も自殺未遂を繰り返し、近くの病棟に入院したことがあった。そのとき僕は「ああ、もうこでれ僕たちが彼女を支える必要は無くなったんだな。僕たちは役目を果たしたんだな。全て病院に任せればいい、全て投げ出してしまえばいい」という思考になった。それから心底、僕はほっとしたのを覚えている。気分転換もかねて、昔住んでいた田舎に帰り、昔ながらの友達と黄金に輝く壮大な夕焼けを見た時、その何層にも重なる巨大な雲の隙間から陽の光が溢れ出したのを目の当たりにしたとき、自分は死んでしまったのだ。と思った。

 もう、僕はあの時に死んだのだ。僕は桜子の命を救うというカルマを成し遂げ、生きながら黄泉の国へと足を運んでしまったのだ、と確信した。それは単なる僕の妄想であったのかもしれないが、未だに余生を過ごしている感覚が否めない。


 社会から隔絶された世界を作ろうと、僕はもがいていた。仲間はたくさんいる。巨塔さんも桜子も、僕の大切な仲間だ。もう少しで法人登記も終わる。そうしたら、はれて僕が思い描いた世界が実現する。


「……紅茶、おかわり要りますか?」僕は彼女に言う。「いるー」


 テレビはNHKの大自然をテーマにした番組が放送されている。森の緑や、トンボやアメンボが、河川の水辺で優雅に暮らしている。大自然そのものには綺麗な音楽など流れていないはずなのに、そこにはどうして、綺麗な音楽がこんなにもお似合いなのだろう。と、僕は僕自身の中にあった人工的なものと、自然的なものとの境目が曖昧になるような奇妙な感覚に陥った。

 僕が初めて巨塔さんと出会ったときも、似たような感覚だった。

 僕は、彼女が好きだ。美人だから、可愛いから、という単純で明確な理由である。しかしそれ以上に、彼女はどことなく奇妙さを有している。人間の女性に元から備わった独特の歪さである。奇怪さ、とでも表現できるのだろうか。僕はそうした感情を、巨塔さんに抱いている。それはある種、恋愛感情そっくりな部分もあるし、憧れみたいな部分もある。


 巨塔さんが座っているソファーの横に、小さな白い丸テーブルがある。アールグレイの紅茶をそこに二つ置いた。一つは僕が飲み、もう一つは巨塔さんの分である。僕はこうして一緒に紅茶を飲むとき、まるで恋人同士であるかのような、心地の良い感覚になるのだ。それは僕が一方的に抱いている恋愛感情のようでもあり、全く別の感情のようでもあった。


「さっきはありがとうございます」
「何の話?」
「桜子の様子を見に行ってくれて。僕、ああいうナイーブになった子の対応の仕方、分からないから」

「ああ、構わないよー。史郎はマジメだからねぇ」


 壁に掛けられた茶色くてシンプルな丸い時計の針が、午後八時ちょうどを指している。秒針の音が異様に大きくて、辺りにカチカチと響く。台所とリビングを繋ぐカウンターのテーブルには、緑色の多肉植物が置いてあって、まるで時計の音を栄養源にして育っているみたいだった。光沢があり、オモチャのような本物の植物。人工的な自然物の産物。巨塔さんが突然、伸びをして「にゃぁー」という声を張り上げた。彼女はまだ下着のままである。


「にゃぁー」と僕は巨塔さんの真似をしてみた。すると彼女は再びわざとらしく「にゃぁーにゃぁー」と言うのである。これが彼女の可愛らしい仕草だった。

「お休みにゃぁー」と巨塔さんは言い、立ち上がる。どうやら彼女は寝るようである。

 天井に近い白い壁の隅に、昨日のパーティーで使った折り紙の輪っかの一部がこびりついている。セロハンテープで止まらなかったので僕が画びょうで止めたのだ。片付けの時に引っ張ったら、輪を三つほど残して千切れた。赤と黄色と緑色の輪っかの残骸だった。

「もう寝るんですか? まだ八時ですよ」
「桜子と一緒にねるー」


 静かな住宅街を爆走するバイクの音が外から聞こえ、過ぎ去っていった。部屋には再び時計の秒針の音が鳴り響く。沈黙の中に存在する音は艶美で、尚且つ感慨深い。

 ライトの光を調整するつまみを回し、部屋をより暗くする。砂刷りの壁だったので、光が反射すると黄金に近い色になる。収穫期を迎えた稲穂が、黄金色に輝くように、壁はライトの光をうけ淡く発光している。


 その光の一辺に、裸の女の絵が描かれている。両膝をつき、細い腕で乳房を隠しながら上目づかいをしている女の絵である。不動産を契約した当初、その当日に、巨塔さんが落書きをしたのだ。それは落書きと呼ぶにはあまりに上手く、アートと呼ぶにはちょっと卑猥な出来栄えだった。僕はこの壁の落書きを何と表現したら良いのか分からない。僕らがこの家に住み始めてからずっとあるシンボルみたいなものなのかも知れない。


 僕が高校の頃に通っていた美術教室の先生は、主に抽象画を得意とする人だった。僕は彼の作品が好きだったので、この家には先生から譲り受けた絵画が何枚か飾ってあるが、その中でも巨塔さんの絵はとりわけ目を引く。一点の歪な存在だった。


「おやすみなさい。僕はまだ、起きているから」


「うん。了解ありがとう」


 横開きの扉が、カラカラと軽い音を立てて開き、巨塔さんがそこを出ていく。赤茶色の木製の扉に、綺麗な透明のガラスが、何枚か取り付けられている。それが細かく振動する音は、部屋に小さく反響して、声にならない誰かの悲鳴のようだった。


 巨塔さんが居なくなった部屋は、なお一層、静寂に包まれていた。


 これから僕は法人登記について手続きをしなくてはならない。キッチンの奥手にちょっと小さなスペースがあるので、そこを僕専用のディスクにしている。赤い幾何学模様の絨毯を下に敷いて、小さな黒い椅子に腰を掛けて、缶コーヒーを飲みながら仕事をするのだ。夜はまだ深くなる。


 風の匂いを感じないと僕はだめだ。一日のうち、何度かは外の空気を吸わないと疲れてしまう。そういう体質だった。たとえば桜子は、いくら家の中に居ても苦ではないだろう。むしろ外出には多大な労力を有するはずである。巨塔さんは、どちらかというと場所ではなく人で選ぶタイプの人間だ。居心地の良い人間たちと一緒にいられるなら、たとえ地獄でも笑顔を絶やさない。彼女はそういう腹の底から善良な人間なのだ。


 依然として時計の針の音が鳴りやまない。
先ほどまでは考え事をしていたので、秒針の音などまるで耳に入らなかったのだが、静寂に満ちた空間で仕事に取り掛かろうとするとき、決まって秒針の音は存在感を増す。


 絨毯に素足をこすりつけると、昨日のパーティーで食べたポテトチップスの破片が足に当たった。最近は部屋の掃除をしていない。女性と生活を共にしているのだから、清潔さだけは維持しなくてはならないと思いつつ、結局できない。


 それに巨塔さんも結構だらしないところがある。衣服を脱ぎっぱなしにしたり、片づけをしなかったり、このコミュニティに対して完全に心を許しているような態度に、僕はちょっと喜びを感じる。


 食べかけのポテトチップスが、ノートパソコンの後ろ側に隠れていたので、何も考えず一枚食べた。湿気っていたけれど旨かった。数枚食べたあたりで、もう仕事も何もやる気が無くなってしまった。早く巨塔さんに会いたいと思った。僕は昔から孤独を感じやすい人間で、人と馴染めない割には仲間と一緒に過ごしていたいという願望が強い。おそらくここに住む人間にはそうした感情を少なからず有している。


 湿気ったポテトチップスの匂いが漂っている。暗い部屋の中に、ノートパソコンの白い光だけが輝いている。外から蛙たちの合唱が聞こえる。彼ら小動物たちは、その小さな身体に生命としての機能を欠如なく詰め込んでいる。自分の意志ではなく、生命システムの一部として鳴き声を発しているその奇妙な動物たちの存在に、僕は幼い頃から違和感を抱いていた。彼らには感情があるのだろうか。彼らは世界に存在するありとあらゆる苦痛に対して恐怖するのだろうか。もしそうした負の感情が無いのだとしたら、彼らは化物である。人の苦しみはおろか、自分の不幸すら分からない、その一切を知ることのない怪物である。


 ざらざらとしたフローリングの床を、素足でゆっくりと歩きながら、僕は巨塔さんの元へ向かう。彼女の部屋は二階にある。リビングの扉を開き廊下に出ると、すぐそこに闇があった。暗い黒が廊下に迫っていたので、僕は手の感覚だけで壁のスイッチを探り当てる。暗闇が恐ろしくなって電気を付けた。


 黄色い光が廊下を照らし出し、突き当りの階段を映し出す。隣の部屋にいる桜子に挨拶をしようかと思ったが、寝ているかもしれないので諦めた。砂刷りの壁に、絵画教室の先生が描いた抽象画が何枚か飾ってある。アカンサス、という植物をテーマにした絵を、僕は一番気に入っている。アカンサスは芸術の象徴である。美を好む、という花言葉があって、その背の高いおどろおどろしい植物の存在感は、巨塔さんの持つ雰囲気のそれと酷似していて好きだった。


 階段には、光を帯びて淡い緑色に発光している滑り止めが付いている。この家にきた初日に、僕が足を滑らせて転びそうになったので買ったのだ。付ける作業をしてくれたのは巨塔さんで、彼女は階段の縁に一つずつ滑り止めを付けるというような細かい作業が好きらしい。僕は手伝おうとしたけれど、彼女には笑顔で断られた。


 階段を上ると、巨塔さんの部屋が開いていた。その部屋の奥の白いカーテンが揺れていることに気づき、僕は彼女がベランダにいることを察した。薄暗い部屋に微かに月明かりが差し込んでいて、蛙たちの鳴き声もひどいようである。


 木の香りがした。同じ家だというのに、まるでその部屋だけ何かがおかしいような、懐かしいような感じがした。月明かりだけで照らされた暗い本棚と、ベッド。
「史郎、何しているの?」
「いや、ちょっとアナタに会いたいなと思ったんです」


 音と音の中に在る静寂が濃いようだ。時計の秒針の音がここでも聞こえる。月明かりを背にしてこちらに向かってくる巨塔さんのシルエットは、まるで妖艶な幽霊のようで、長い黒髪が揺れる。彼女は美しい幽霊だ。僕はこれから彼女に食い殺されるのである。素足が地面を踏む微かな音は、確実に僕の方にやってくる。


「ちょっと喉が渇いたから、水をとってくるね。せっかくだから史郎も一緒にお月様をみようよ」


 ありふれた彼女の言葉で、僕の意識は一気に現実に引き戻された。草木の匂いを含んだ夜の風は清々しく吹き抜ける。風というのは暗闇の影響なんか受けないんだと知らしめてくれるみたいに、鮮烈な力強さを持って吹き掛かってくる。巨塔さんは部屋を出る。

 黄色い満月が窓から見える。そこに薄墨のように、幾重にも重なった雲が流れる。コオロギや鈴虫の鳴き声は止まない。虫はいい。虫は生き物というより小さな機能に近いから、僕は彼らを恐怖しない。僕が恐怖するのは、社会に散りばめられた無数の白い眼球だけだ。


 ベランダのすぐ下の道路を、一筋の眩しい光が通過し、僕の耳にバイクのうるさい音が聞こえた。しかしその繊細なヘッドライトの流れ方は心地よく、そのバイクの主がすぐに瀬戸くんであることを確信した。瀬戸くんも、この家の住人である。彼は雨の日にやってきて、僕とすぐに打ち解けた。寡黙な色白の少年だった。自己紹介をするときに、彼は巨塔さんに向かって「珍しいお名前ですね」と言った。確かに「巨塔」という名字は一般的には珍しい名字だ。彼はそういう細かいことによく気が付く。


「帰ってきたの」という巨塔さんの声に驚いて振り向く。


「水、飲んできたんですか?」
「これ、史郎も飲む?」


 巨塔さんはそう言って缶コーヒーを僕に渡してきた。ひんやりと冷たい感触か指先に伝わった。巨塔さんはペットボトルのコーラをぐびぐびと飲んでいる。彼女の唇の端からコーラの液体が流れて一筋の線になり床にこぼれた。ごめんね、と言いながら素足で床をこすりつけ乾かそうと試みる。「そんな目で見るなよぉー」満面の笑みで彼女は笑っている。

 月明かりが巨塔さんの顔面の陰影を映し出して、青白くなった彼女の顔の表情は、幽霊みたいなはずなのに、幸せそうに見えた。


 玄関のチャイムが鳴って、扉が開く音がした。瀬戸くんが帰ってきたのだ。瀬戸くんは働いているのだ。驚くべきことに彼は、この家の中で最も社会性の高い人物だった。


「おかえりー」と酒にでも酔ったのか、と思わせるような勢いで、巨塔さんは階段の下に向かって乱暴に叫ぶ。「ただいまぁー」わざとらしい、しかしハッキリとした大声が帰ってくる。ノリが良い、ふざけているような声だった。


「オレさぁ、巨塔ちゃんが描いたあの絵好きなんだよね、マジで抜ける。マジでエロい。最高、それとさぁ、オレ、ここに居られて幸せだわ。居心地がいい人間っていいよ」
 大きな足音を響かせながら階段を上ってくる。


瀬戸くんは以前、巨塔さんが滑り止めを階段の縁に取りつけた直後にそれを剥がして「ごめんねぇ、オレ、裏側に何が付いているのか見たかったんよー。やっぱ接着テープだよね、魔法じゃないよね。オレさぁ、こういう裏側を見ないと気が済まんのよね、もしかしたら魔法の言葉が書いてあるんじゃないかと思ってさ」と言ったことがあった。彼はもしかしたら何か先天的な才能を有しているのかもしれない。


「史郎? 誰といんの?」
「瀬戸くん、駄目だよ。いま僕と巨塔さんがイチャイチャしていたんだから」と僕は言った。「いいなぁ、史郎は。巨塔ちゃんと仲良くてさ、オレなんかリーマンやっているから、人間関係とか嫌でさぁ、出会いもないし、それでここには桜子も巨塔ちゃんもいるけどさ、みんな崇高なんだよね。いや、何がそんなに崇高か分かんないんだけど、とりあえず、オレはみんなのことを尊敬しているよ。人間の嫌な部分が欠落しているっていうかさ、人として欠落しているって意味じゃなくて、悪意が無いっていうか、まあ、それは置いといてさ、巨塔ちゃんは美人だし、桜子はカワイイでしょ。オレなんかがここに居ていいのかなって気がすんのよ。なんでか知らんけど」


 瀬戸くんはよく喋る人だ。それで一番、常識があるかもしれない。それは社会人としてしっかりと働いているから、という側面も当然あるのかもしれないが、本質的に一般の市民と感覚が近いのかもしれない。どちらかというと僕たちは、普通の人から見ると変わり者と呼ばれる部類にいるので、僕たちの活動を客観的に眺めてくれる彼の存在が必要だった。


「瀬戸くんはここに必要な人間だよ。それは僕が保証するさ」僕は瀬戸くんの肩をポンポンと叩く。背の高い、かなりガッシリとした肩。僕は、彼が僕たちよりもメンタルの強い人間であることを知っていたから、その肉体から溢れんばかりの「普通」という種類のオーラの強力さを感じ取った時、普通であることは強者の必須条件なんだな、と漠然と理解したような気がした。


「そうかい、そうかい、そりゃー良かったよ。ブラザー」と彼は言った。瀬戸くんの一挙手一投足は、僕が幼少期から見てきた「その他大勢のクラスの皆」そのものだった。依然として僕らよりも「上」に居て、燦然と「常識」を形に描いているようだった。


 巨塔さんは床にあぐらをかいて座り込んでいる。「ねぇ、さっきまで眠かったんだけどもう眠くなくなっちゃったよー。皆で遊びに行こぉー」月明かりの他にも、街の明かりが窓から見える。点々とした煌びやかな色とりどりの光が、窓の外の暗闇に散らばっている。僕は町へ出たいと思った。彼女たちと一緒に世界に出て、自由と制約の狭間を泳ぎたいと思った。風と一緒にタバコの臭いが入り込んできた。誰かが外で喫煙をしているのかもしれない。


「私、外の空気に触れたい。近くに公園があるじゃん。ちょっと小高くなった景色のいい公園。あそこ夜は誰も居ないからみんなで今から行こうよ。それでさ、桜子もさそって、駄目だったら三人で行こうよ」
「いいねぇー、巨塔ちゃん、行こうよ。行こうよ」


 酒に酔ったみたいに瀬戸くんは言った。手をパチパチと叩き、彼は巨塔さんに賛同している。彼の拍手の音は部屋に響き、僕はその暗い部屋の反響の仕方が、昔、日光で見た鳴き龍のようだなとふと思った。僕がビャクダンの匂いを気に入ったのは、そういえば日光で陽明香守を買ってからだとも思いだした。


「瀬戸くん、君は明日仕事じゃないのかい?」と僕は言った。
「いいの、いいの、余裕だから」と彼は言った。そして彼はたぶん、本当に余裕なのである。


 世の中には、自覚せず強い人というのがいる。自分が強者であることを自覚していないのに、あたかも普通として生きている人間。そういうタイプの人間は、僕は二種類あると思う。弱者に寄り添えるタイプか、そうでないか。この二種類だ。そうして世の中には後者が多すぎるのだ。


 瀬戸くんは、もちろん弱者に寄り添える善良な人なのだけれども、僕は彼の、そういう無自覚な強さの部分に対して、ほんの少し畏怖していた。ある種の緊張感、といっても良いかもしれない。こういうタイプの人間と、僕が対等にしゃべることができることに対して、僕はちょっと誇りに思っている。


 巨塔さんは立ち上がる。ニコニコしながら僕の手を引っ張って、
「ねぇ、お外に出ようよ。外はあんなに風が気持ちよさそうだよ。夜の風だよ。ねぇ夜風が吹いているのよぉ、遊ぼうよ。みんなで公園に行こう?」


 確かに外は風が清々しいようだ。あんなに月の光が美しく、草木は生き生きとしていて、それなのに僕たちは三人で狭い部屋にいるというのは可笑しいことなのかも知れない。僕は外に出ようと思った。


「実は僕も、外に出たいんです。みんなで家出しましょう」と僕は言った。


「そうだ、家出だ家出」と巨塔さんが元気よく言った。「桜子も連れだそう。さっき見たら元気そうだったし、大丈夫だよー」


 僕らは電気を消して暗くなった部屋を後にする。階段にはまだ緑色に発光する滑り止めが、その光で僕らを導いてくれている。僕は桜子の部屋をノックする。
「どなたですかー?」というキョトンとした声が部屋から聞こえる。


「アンナだよ」と巨塔さんが言う。アンナというのは彼女の下の名前だ。しかし巨塔さんというのは珍しい名字なので、みんな名字で呼んでいる。
「アンナさんですか。先ほどは失礼しましたぁ」
 弱々しい声が聞こえる。僕はこのように病弱そうな女の子を外の世界に連れて行って大丈夫かなと心配に思う。


「史郎さんや、瀬戸さんはいらっしゃる?」
「みんないるぜ、それで桜子さん、アナタを外の世界に導こうと検討していたところです」
 と瀬戸くんが言った。桜子は何も答えない。十数秒の沈黙。しばらくした後、桜子は元気そうな声でこう答えた。


「ねぇ、私、生まれる前は宇宙の王様だったんだよ? この世界には五十くらいの宇宙があって、みんな人間と同じように暮らしているの。でもね、形が違って、爬虫類みたいな人もいたり、クラゲみたいな形をした宇宙人が、空中に電気信号を描くことでコミュニケーションを図っていたり、いろいろあったの。それで私はその王様。私は男の子だったの。それで、史郎は前世、可愛らしい女の子だったんだよ。史郎はすごく繊細で、人の痛みに敏感で、傷付きやすいの。男の子の私は、いつも史郎を助けていたんだよ。覚えていないよね。そうだよね。記憶、無いよね。でもいいんだ。前世では戦争が起こって人がいっぱい死んだの」


 扉一枚を隔てた向こう側で、桜子は語っている。僕ら三人は彼女の声を真剣に聞く。これは、彼女の魂からの叫びだから、決して嘲笑ったりしない。僕らは彼女の言葉を聞き逃すまいと扉の向こう側に意識を集中させた。


「史郎は人が傷付くとすぐ泣いちゃうから、私がいつも慰めてあげたんだ。大丈夫、大丈夫、来世でまた会えるからね。史郎……君はお姫様だったんだよ。史郎は昔、儚い女の子で、とっても優しいから、誰も傷付かない世界を作りたいって毎日、毎日泣いていたの。私が戦争に駆り出されると、君は泣いて止めてくれたの。今ならまだ間に合うから、お願いだから死に急ぐことはしないで。って」


「記憶はないけど、なんか、ありがとうね」と僕は言う。確かにそんな記憶など、僕には無かった。しかし、僕が精神障害のある桜子をこの家に招いたのは、僕の心の中で桜子の妄想ともいえる世界を信奉していたからに他ならない。
「史郎が桜子を招いた理由が、分かった気がしたぜ」と瀬戸くんが言った。彼は人の気持ちを察するのが本当に上手なんだな、と僕は感じた。

 彼は要領がよく、人の気持ちを察することができて、なおかつ優しくて強い人間だったので、僕は本当に彼を尊敬するし、毎日、彼との力の差に愕然としている。


「桜子ぉー、昔の話なんかしていないで、一緒に私たちとお月様見に外へ行こうよぉー」巨塔さんは甘ったれた声で桜子を呼ぶ。「お着換えをしないといけないんです」と桜子は言った。そうして、その返事を聞いた巨塔さんは「よっしゃ」と小さくガッツポーズをした。桜子が僕たちと一緒に外の世界に飛び出してくれると確信を得た為である。


 しばらくすると、扉の向こう側から「開けてください」と声がした。巨塔さんが扉を開く。中は暗闇だった。電気が付いていないのだ。桜子は暗い方が落ち着くから、あまり明るいところは好きではないらしい。部屋の奥から布団の匂いがした。暗い部屋の中に、確かに桜子はいて、正座の体勢で座っている彼女の姿が、闇の中に幽かに見える。その華奢な少女のシルエットには、数多の死線をさまよった……いつ死ぬか分からないといったような……そんな死のオーラを含んでいた。


「史郎、先ほどは叫んでしまってごめんなさい。私ね。夢の中だよ。今も夢の中にいるみたいなんだけど、本当に夢と現実の中にいるときは、理性が効かなくなるの。もの凄い怒らないといけないような気がして、何か理不尽な現実に逆らわないといけないような気がして、それで、あんなふうに叫びながら起きちゃうんだ。ごめんね。ごめんね。うるさくして」


「かまわないよ。それが、この家の味……というかユニークな特色みたいなものなんだ。僕はさ、君がどれだけ叫んでも、僕たちがどれだけ弱い者同士で傷のなめ合いをしても、許される……そんな暖かい世界を作りたいんだ。それが僕の夢なんだ。だからさ、桜子はもっと叫んでもいいよ。君の怒りは、僕たちが社会に対して抱いている怒りだ。醜悪な現実は、どんな善人にも牙を向くからさ。だから、僕たちの世界を作るには、君のような人が必要なんだよ」僕は語った。夢を語ったのだ。風通しのいい場所へ移動するための手段を、僕たちは持っていないから、せめて暗い穴の中に潜んでいる仲間たちで、社会から這い上がるための手段の打ち合わせをしなくてはならないのだ。


 僕は暗闇たたずむ彼女のシルエットに向かって、弱者の存在そのものを肯定するように言う。巨塔さんと瀬戸くんは何も言わない。彼女が立ち上がるのをただ黙って見守っているようだった。


 そのうち、ゆっくりと桜子が立ち上がるのが見えた。細い手足で洋服の裾を整えて、髪をとかしている姿が分かる。


「行きましょうか」と巨塔さんが言う。瀬戸くんはもう玄関で靴を履き替えているようである。玄関の電気がついていて「明日も仕事だよぉー」と叫ぶ声が聞こえる。夜中、酒に酔った男が大声で歌いながら車道の真ん中を千鳥足で歩くような、そういう雰囲気が今の彼にあった。僕らはこうして夜の街の儚い月明かりに照らされに行くのだ。僕らは必ずそうしなくてはならないのだ。

 外へ出た時、僕の心は非常に落ち着いていた。僕は仕事という仕事はしていないし、貯金もどんどんと減っていく一方だけれど、この先の将来の不安とか、漠然とした恐怖とかは一切なかった。仲間と一緒にいられる喜びとか、弱い者どうしの傷のなめ合いとか、そういうことをしている時、今後の将来のありとあらゆる苦痛を忘れられるし、自分が弱者の中心的な存在であると自覚すると、何となく、この先どんな苦しみが襲い掛かって来ようとも乗り越えられるような気がするのだ。


 雲一つない紺碧の夜空に、星が煌めいている。満点……とはいかないものの、確かに僕たちの手の届かない遥か上空に、星は散らばっている。どれだけ星が遠くても、どれだけ僕たちの心の平穏が遥か未来に位置しているとしても、手を伸ばさずにはいられない。弱者はそういうカルマを背負っている。


 人通りの少ない暗い道に、ホームレスが横たわっている。僕は彼らを救いたいとは思わない。なぜ救おうとは思わないのか自分でも理解できなかったし、なぜ瀬戸くんのような人を仲間に引き入れたのかも良く分からない。自分にとって都合の良い人間だけで周りを固めてしまうというのは打算的なようでいて、実はけっこう理にかなった方法だと僕は思う。


「星にはね、人が住んでいるんだよ」と桜子が言った。


「地球みたいに物質があって、こういう手足で生きている訳じゃないんだよ。なんていうか、概念? みたいな形で存在していて、みんな凄く軽いの。想像したことは実現するし、悩みも苦しみも無いんだよ。その星によって概念の特色も違うし、思想も違うの。私たちのいる地球は重いから、上にはいけないんだよ。だからみんな星に人が住んでいることが理解できないんだよね」


 星空はいまも僕たちの上空で輝いている。僕たちがいるちょっと小高くなった公園の丘の上からは街の光が煌々としているのがハッキリと見える。あれは苦しみの塊である。社会の上に横たわった苦しみの具現化である。世の中には本当に様々な苦しみがあって、僕たちは常にそれらに打ちのめされている。学校に行く、会社に行く、という行為は、みんな苦しいはずなのに、それに気づかないフリをしている。それがこの街の悲惨な有様なのである。


「私がこんな話をすると、みんな可哀そうだね。って言うの。アナタは辛い目にあってきたから、現実から目を逸らすために自分の世界に閉じこもっちゃうのね。って、統合失調症って言われるけれど、みんな持っているんだよ。みんな何かしら持っているの。私だけが特別なんじゃなくて、ただ言わないだけなの。口を閉ざしているだけで、みんなそれぞれ自分の世界があるの。だから私は可哀そうな人なんかじゃない。みんな辛いし、みんな可哀そう」


 巨塔さんは地べたに寝転んでいる。長い髪の毛がコンクリートの地面に広がり、幽霊のようにおどろおどろしく、そこにあった。


「桜子! 波動拳の打ち合いをしよう!」唐突に瀬戸くんが言った。彼は面白いポーズを取りながら「行くぞ」と言った。


「さあ! おいで」桜子は大げさに両手を広げながら答えた。次の瞬間、瀬戸くんは大きな声で「波動拳!」と叫びながら、桜子に向かってそれを打つふりをした。桜子は「うう!」とやられたふりをした。巨塔さんが大きな声でケタケタと笑っている。

 僕は巨塔さんの隣に一緒になって寝転んだ。硬い地面の感触を背中に感じながら、僕は巨大な黒い空を見上げていた。都会の中にいても、大自然の気配というのは薄れることはないものだなぁ、と僕は感じた。僕らは決して日本社会にいるのではない。大宇宙の中にある無数の生命体の一個として、そこら辺にいる虫や鳥や花たちと同じように、あるいは菌やウイルスのように、ただ無益な存在として漂っているだけなのだ。

 それは決してネガティブな考えなどではなく、むしろ日本社会の枠組みの思想に囚われることのない柔軟な思想として僕たちの中にポジティブに存在していた。価値の無い人間として生きることに対する喜びというのは、本当に素晴らしく、開放感に包まれるものだ。周囲の人間にこの言葉を伝えると、卑屈になるなよ、とよく言われる。けれども僕らは卑屈になっている訳ではなく、むしろ前向きな手放しとしてこの事実を受け入れることこそが真の喜びだと確信してやまない。


 巨塔さんはなお幽霊のように黒々と地面に横たわっているし、桜子はいまにも消えてしまいそうな儚いオーラを纏いながら、両手を翼のように大きく広げ空を感じている。


 夜は深くなり、風はその深淵に沿って渦をまく。光は巨大な街の小さな家々の窓の中にしか見えず、煌々としたその悲しい色は、ただ人々の心を乾かしているだけだった。けれども、僕は気が付いている。群れることは苦しみだということに。愛する人といつか別れが来るというのは哀しみだということに。僕は気が付いている。気が付いていながら、なお僕は彼らと共存することを選んだ。それは紛れもなく僕自身の弱さそのものだった。


「史郎! ジュース買いに行こうぜ!」
 と瀬戸くんが言った。彼は黒い長財布を振りながら僕に語り掛ける。
「おう!」


 彼の強さに呼応するような形で僕は返事をすると、ぼんやりと光り輝く自動販売機に向かって歩き出した。


 夜中に皆で飲む飲み物は非常においしかった。何も考えなくていいし、人生において何かを成し遂げなくてはならない、という呪縛から解放される気がして、僕は真夜中の外の空気が好きだった。


 瀬戸くんはコーラを飲みながら月を見ていた。今夜は満月で、濃い黄色に発光しているその衛星は、まるで命を帯びているようで、人間よりも遥かに生命力のある神のような存在に思えた。
 公園のベンチに座っていると、瀬戸くんが隣に座って、
「俺、みんなに謝らないといけないことがあるんだよね」


 と言った。僕はひょっとしたら、瀬戸くんはここを辞めるつもりなのかな、と思ったけど実際は違った。


「昔……中学の頃かな。オレはテニス部だったんだよ。それで、一人イジメられている子がいてさ……壁打ちってあるじゃん。みんなでそいつを壁に立たせて、そいつに向けて壁打ちしていくの。もちろん本気で当てようと思っていた訳じゃなくて、みんな遊びのつもりだったんだろうな。一人ずつ壁打ちしていくんだけど、とうとう俺の番が来てさ、その時俺は特に考える訳でもなく、みんなと同じようにやったんだよ。イジメようとする意志があったわけではないのに、システムとして俺は自動的に加害者に組み込まれたような気がしてさ、ああ、世の中ってこういう見えないシステムで善悪が決まるんだなって思ったんよ。それで、俺は加害者の部類になった。俺は、ここにいていい人間じゃないのかもしれない」


 僕が答えられずにいると、


「俺はさ、中学を卒業してから地元でそいつとバッタリ出会ったことがあってさ、俺は、反射的に土下座しちゃったんだよね。道路の真ん中で。あの時はすまない。って、許してくれるはずはないだろうって思っていたんだけど、そいつは何のことか分からないって感じでさ、戸惑いながらもその時の記憶を思い出してくれて、それから笑って許してくれたよ。その時思ったんだよ。この世の中に、善悪が自動的に決まるような見えない心のシステムなんて無いのかもしれないって」


「……深く考えすぎさ」
 と僕は言った。


「君が心の優しい人間だったから、その子は笑って許してくれたんだろう? 本当の加害者は、加害の意識が無い」


 瀬戸くんはうつむいている。強い人間の弱い一面を見た気がした。罪悪感は人を弱くする訳ではない。罪悪感というのは、自分の弱さに立ち向かうために用意された神からの試練なのかもしれない。


「そう言ってくれて救われたよ。ありがとう史郎」
「どいたま」と僕は言った。


 それから、巨塔さんは暗闇の中からむくっと起き上がると、僕の方へやって来た。


「楽しいね、史郎」
「楽しいな、史郎」


 巨塔さんの言葉に合わせて、隣にいた瀬戸くんも同じように言う。


「ああ、世界は楽しいし美しい」と、僕は言う。


 世界は、虚空で溢れかえっていた。以前、僕はこの世界が憎くて憎くて仕方がなかった。少しでも傷が付けば痛むこの肉体にもどかしさを感じていたし、戦争や犯罪や、いじめや虐待や、その他の人間関係や、理不尽さ、不公平さ、ありとあらゆる現世の苦しみが存在することが恐ろしかった。悲劇のヒロインぶっているんじゃねぇ、と周りから思われることも苦痛で仕方なかった。


 そして生きとし生ける全ての生命が完全に心の平穏を取り戻すまで、決してそれらの苦しみの多い社会に対する僕の怒りの炎は消えることはないだろうと感じていた。


 そして、そう感じてしまう僕は紛れもなく弱者だった。


 しかし、がむしゃらにもがきながら、本当に気の合う仲間と巡り合ったとき、僕の「世界」に関する考え方、捉え方は変わった。何が変わったのか分からないし、合理的に、論理的に考えれば世界は依然として醜悪のままなのだけれど、その醜悪のままの世界が、なんとも美しく感じるようなきがしてきたのだ。


 今もこうして巨塔さんは美しいし、桜子は可愛いし、月は綺麗で、瀬戸くんは強くて、僕はこのように清々しい夜の闇を全身に受けて、燦燦と煌めく街の明かりを眺めている。風の中に土の匂いが混ざっていて母なる大地は僕らの土台に確かにあるし、星空はあんなにも美しい。


 思考と感情の矛盾が、僕の中に確かにある。ロゴスは確かに醜かったが、パトスは溢れんばかりの歓喜で満たされている。
「史郎、また一緒に踊ろうよ」と巨頭さんが言う。


 僕と巨塔さんが出会ってまだ間もない頃、よく踊りを踊った。一緒に手を繋いで、見よう見まねの社交ダンスを踊った。当時、彼女にはまだ自傷癖があり、手首には何本もの痛々しい傷跡が残っていた。


「また例のSMプレイですか? 嫌ですよ」
「今日は月が綺麗なの。今日は普通に踊るの!」


 僕が精神的に不安定だったとき、よく彼女に一緒に踊ってくれませんか、と聞いていた。その時、もし彼女のほうも精神的に不安定だったら、踊りが成立する。
 僕と彼女は夜中にこの公園まで歩く。夜の匂いは危険な快楽の匂いだ。公園に着いたら、お互い、カッターナイフを取り出す。


 僕は右手にカッターを持ち、彼女の左手首に。


 巨塔さんは左手にカッターを持ち、僕の右手首に。


 明け方になるまで踊りながら、最後はお互い、流血しながら抱き合った。血が潤滑油の役割を果たして、それが性的興奮へとつながる。出会った当初の僕らの趣味だった。


「普通に踊る……かぁ、ねぇ巨塔さん。僕らはもう『普通』の人生を手に入れたんですね」


「私も君も、元から普通だったよ。周りの人たちが異常なのさ」


「あの例のプレイのどこが普通なのよ。今でもアナタに付けられた手首の傷、残っていますよ。それで、夜中のオカズはいつもこの傷跡です」


「はぇー、それはエロいねぇ」
 この薄暗い月明かりの元では、僕の手首の古傷なんて目立ちはしない。


 桜子と瀬戸くんは、未だに波動拳の打ち合いごっこをしている。


「桜子! お前をレイプした奴らが、必ず天国に落ちる、呪いの波動拳だ」
「天人五衰は、地獄の苦しみの十六倍っていうからね!」


「くらえっ! ヤァー!」
「やられたぁ」


 瀬戸くんと桜子も楽しそうだった。
 彼らの話を聞いていて思い出した。仏教の目的というのは必ずしも天国に行くことではない。天国に行っても諸行無常の因果で、必ずそこから離れなくてはならない日が来るのだ。徳が尽きれば天国の住人も地獄に落ちるし、天国でも寿命の概念はあり、肉体が尽きるのは非常に苦しい。もともと楽しい生活を送っているだけあって、その苦しみは実に地獄以上だという。


 そう、この世は一切が苦しい。どこに行っても逃げ場はない。どこに行っても必ず鬱はすぐ近くにいて死の影を運んでくるし、雑な快楽は虚無感と憂鬱の兆候である。


 僕らはそれを打ち破るために果てしなく踊るのだ。星空は広大で、空気は澄んでいて、地獄の炎も、限りなく遠ざかれば暖かい暖炉に変貌する。


 それに、手首から血を流しながら巨頭さんと踊ったあの頃は、今ですら綺麗な思い出に変わっているし、桜子が受けたレイプ被害は、瀬戸くんとの波動拳の打ち合いごっこに変わっている。結局のところ、世の一切の苦しみすら諸行無常なのかもしれない。


 壮絶な境遇も、悲しい程に衰退してしまう。
食中毒で力なく横たわって、弟子に看取られながら死んでいったお釈迦様みたいに、苦痛と幸福の境目など、実は曖昧なのかもしれない。
「ああ、この世はなんて苦痛で満ち溢れているのだろう!」


 と桜子が黒い空に向かって大声で叫んだ。夜空に向かって両手を大きく広げている彼女の小柄な肉体は、まるで空から降りてくる堕天使を、精一杯の力で受け止めようとしているみたいだった。


 桜子の瞳には、無数の星々が煌めいている。その星のうちの一つに、彼女の本当の故郷があるのかもしれない。
「史郎、踊ろう?」


 巨塔さんが僕の手を握った。あの頃の痛みを思い出して、一瞬戸惑ったが、鮮烈な痛みの思い出の中に奇妙な懐かしさがあった。


 僕らは踊った。もう僕の身体から血が流れることはない。そして巨塔さんの手首からも、血は一滴たりとも流れていない。


 僕らは踊った。虐待と暴力と、鬱と希死観念と、理不尽さと、醜悪の世界で、僕らは果てしなく踊った。
 

 そのうち僕と言う個人、人格、肉体、感覚が全て世界に溶けて行き、自分と周囲の世界の区別が付かなくなった。世界は一つであり、内側から溢れ出す絶対の平和に包まれていた。美と醜悪さが一つになったとき、僕の心の奥底の部分から、輝かしい光が溢れ出す感覚に包まれ、歓喜に打ち震えた。


 瀬戸くんが買ってきたコーラを、桜子の髪の毛にかけた。びしょびしょになった彼女は楽しそうに瀬戸くんに抱き付く。


 髪の毛が彼女の顔に張り付き、白い服は透けて、彼女の下着が月明かりに晒された。
「瀬戸さん、アナタは私に何をしても許されるんだよ。もっとヒドイことしたって全然いいんだよ?」


「桜子! 君は何を言っているんだ。いま俺は、君の髪の毛にコーラをぶっかけたんだ! コーラを! 女の子の顔に、掛けたんだ! これ以上悪いことがあってたまるかぁ!」
「瀬戸さん、アナタは優しい人です。アナタは心が美しい人、何をしたって許されるんです」
「史郎、史郎だって同じだよ」
 と巨頭さんが言った。


「巨塔さん、巨塔さんだって、同じです。僕に何をしたっていい、たとえ僕を裏切っても、僕はアナタとの思い出は捨てられない。アナタは心の優しい人です。アナタには幸せになって欲しいんだ」


「史郎、そういう史郎も、優しいよ。人を傷つけたりしない。それは本当の意味で、人を傷つけたりしないって意味だよ」巨塔さんはほほ笑む。僕もほほ笑む。世界中のみんなが笑っているような気がした。





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