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~愛郷心~ にかほ市釜ケ台地域で暮らす佐藤渓輔さん

にかほ市の北東部に位置する釜ケ台地域。
初めて訪れたとき、目の前に現れた広大な鳥海山に驚き、瞬きすることを忘れ、大きく息を呑んだ記憶があります。そこは空気が澄んでいて、田んぼの稲の緑色が鮮やかに視界に入ってきたのを覚えています。


令和元年7月の釜ケ台地域の風景

そんな場所で暮らす渓輔さんとの出会いは、それからさらに1年後だったような気がします。
釜ケ台自治会長に、ここをず~っと残していきたいと頑張っている青年!と紹介されました。
くったくのない笑顔で、挨拶されたのを覚えています。

佐藤渓輔さん

1.生まれ育った地を改めて見直すことができた環境

由利本荘市内で、東京に本社を置く企業でサラリーマンをしていました。営業職のため、月の2/3を出張で埋め尽くされる生活をしていましたが、地元で暮らしながら数々の他県の地域を見て回ったことが、現在の彼の志に大きく影響したようです。
「なんだ。。どこよりも自分の生まれ故郷は一番じゃないか。景観、空気、人々、どこにも負けてない!」仕事をしながらそんなことを強く思うようになったそうです。

旧釜ケ台小学校前の桜並木
集落の稲が風になびく田んぼ

改めて故郷の良さを感じ始めたと同時に、地域が人口減少のあおりを受けていることも痛感していました。
「このままでは、自分の生まれ育った集落が消滅してしまうのではないのか?」、「どうしたらいいんだろう?なんでなんだろう?」、「自分が地域内で何かできるわけでもないし、地域内で実績もない」。
10年以上にわたり、何かしたくても何もできずに悶々と過ごしてきました。特にアクションを起こすこともなくサラリーマンを続けていたそうです。
そんな状況下でも、初めの一歩として彼が取り組んだことがあります!

釜ケ台地域には400年以上前から伝わる「釜ケ台番楽」という郷土芸能があります。人口減などで、番楽の存続の危機をうっすらと感じていた彼は、小さいころから、番楽に参加していたこともあり、番楽保存会に“広報部”を立ち上げ、目先を変えた情報発信に取り組みます。これが、功を奏し、先輩たちの賛同を得て、むずかしいしきたりや、こだわりがすこしずつ緩み、「釜ケ台番楽」の次世代継承へ向け、動き出しました。
彼の地域活動に向けての足がかりだったのかもしれません。


2.分岐点

そんななか、本社(東京)転勤の話が舞い込んできました。さらに、時を同じくして、渓輔さんの番楽活動を通して彼の存在を知った建設会社の社長から誘いを受けました。「地元の地域開発をやってみないか…」と!
ほぼ決まりかけていた転勤話。本社に転勤になるということはその5年後には海外勤務!将来が約束されたようなものでした。
悩みに悩んで地元に残る決断をしました!平成31年3月のことです。
そうして彼は、その建設会社の子会社でミニトマト栽培を営んでいた地元の農業法人に就職し、農業にいそしむことになります。

釜ケ台地域へ続く県道285号線

分岐点での決断の要因は何だったのか…渓輔さんに聞いてみました。「本社に行きたい気持ちは半分あった。けれども時間が惜しい。その間、地元で地域活動ができなくなる、故郷に戻ってからでは遅すぎる。いつ戻ってこれるかはわからない。同級生がみな、進学、就職のタイミングで出て行った頃から、地域に元気がなくなってきたことを肌で感じていたから。」

旧釜ケ台小学校内に転職した農業法人の事務所がありました。

旧釜ケ台小学校の向かいには、農業法人で栽培していた農産物の無人直売所が開設されていました。
現在もこの直売所では、主にミニトマト、他野菜が販売されています。

ところが、2年後、この企業が事業をたたんでしまいます。
またまた、先のことを考えなければいけない事態が発生!!
悩んだあげく、事業を引き継ぐ決意を固めました。
「ここの農地を守っていきたい。地域の課題を中途半端にしたままにはできない。」


3.独立と起業

田植えが始まる田んぼ

令和3年4月に、個人事業主になり、米作りをスタートします。コメ作りは全くの素人!地域の先輩たちから教えを乞い、知恵を拝借し、初めて秋に米を収穫した時には、喜びもひとしおだったとか(^^♪
2年目の春(昨年春)、従業員とその家族を預かっているという覚悟の元、法人化することに!
株式会社 ひの里」の誕生です。


“日々の生活に寄り添い、太陽のように明るく、人々の心を照らし、火のように 躍動し、未来を灯していく” 社名にはそんな意味が込められています!

㈱ひの里で販売している「ひの米」

パッケージや、商品につける帯のデザインが斬新に見えます。
「価格設定がブランド米のようですよね。」、困らせるような質問をしてしまいました(^-^;
「タイムイズマネーですよ(^^) ここの住民は皆、実直で真面目です!早朝から晩まで休みなく働く。時給に換算したら損をしているかもしれないくらい働く。それはいけないことではないと思うが、売り方やPRの方法を変えれば、もっと短い労働時間で収益があがるはず。それを示したくて、このような価格設定にしました!」
今のところ、成果はどうですか?
「出ています。農業を営む自分でも、サラリーマンのような時間配分で仕事をしています。時代の移り変わりにあわせていかないと!おかげさまで、時間が作れるので、先だっては首都圏まで足をのばし、家族旅行してきました(^^♪」

楽しそうですよね♪ 家族との時間も大切にしているようでした。
“出世の石段”を、家族全員で上ったのかが気になります…(^-^;

会社をたちあげてまだ2年にも満たないのに、人を雇用して収益をあげる。言葉にすると簡単ですが、並々ならぬ努力があったからだと思います。


4.未来へ向けて

「ひの里」を農業法人という捉え方はしていないと、彼は言います。
釜ケ台地域には、遊びに来ても、食事をするところも、泊まれるところもない。こんな景観や伝統をもちながら、「どうぞ、気軽に遊びに来てくださいね。」と、外の人に言えないと。
将来は、飲食業、観光業まで事業を広げていきたい。それが地域の発展に繋がっていくと考えています。事業が増えれば雇用が生まれる、雇用が増えたら地域に人も増える。
その足がかりとして、まずは農業でしっかりと結果を出したい。
「自分たちは楽しいことをしているんだ、という姿を、地域内外の人に見せていく!」楽しそうにやってる姿を見てもらえれば、自分の周りの人たちに自分の活動が理解してもらえることに繋がると考えています。

昨年春に「ひの里」をたちあげ、今年で2年目!常に工夫しながら営んでいるなか、従業員がまた1名増えました。来年はさらに1名増やす予定とか。そのためにも、この夏からミニトマトの栽培も始めました。

ミニトマト栽培に精をだす渓輔さん

やはり…くったくのない笑顔です(^^♪
ミニトマト栽培のビニールハウス隣に「ひの里」事務所を置く建物「はんの木」があります。

そして、少しずつですが、隣の冬師集落から、田んぼを任せたいと依頼も来るようになりました。かつては考えられないことなのです。4集落で構成されている釜ケ台地域ですが、それぞれの集落の農地は、そこに住む人が管理することになっていて、隣の集落の人に任せるようなことは全く考えられませんでした。
最近は、隣の集落の草刈りなどにも、渓輔さんが参加する機会があったことや、少しずつでも米作りの結果を出してきたからではないのでしょうか。

冬師湿原から眺める鳥海山
冬師湿原、春の野焼き

その冬師集落の南側には、およそ約260ヘクタールにおよぶ広大な冬師湿原があります。害虫駆除を目的として昭和20年代から冬師集落と上坂集落の住民が、全世帯から必ず1名が参加し、約4~5時間かけて、この広大な地を野焼きします。年に一度の大変な作業ですが、これを続けてきたおかげで、環境が保たれていて、県内でも貴重な草原となっています。今年は冬師湿原が「未来に残したい草原の里100選」にも選出されました!

紅葉の季節の冬師湿原から望む鳥海山

冬師湿原は、鳥海山と溜め池に写る“逆さ鳥海”の景観が美しく、にかほ市の観光写真などにもよく使用されています。カメラマンも多く訪れる人気の場所です。
ですが、その場所を作っているのは、ここに住む人たち、春に野焼きを行い、秋に草刈りをするなど住民皆で景観を作り、守ってきたからです。

渓輔さんは言います。
「人がいなくなったら下に降りればいい…と言われることがありますが、自分は決してそう思わない。この美しい景色を守り土地を守る。先人たちが苦労して守ってきた土地を途絶えさせたくない!」

取材の日、集落でみたアゲハ蝶(都市部ではほとんど見ることができなくなりました)

『いずれは小さなディズニーランドに』
遊園地を作るということではなく、この地に永住してもらえなくても、頻繁に人が足を運ぶ地になってほしい、その要素は十分にあると思います!!
と、力強く話してくださいました。初めてお会いしたときのように、くったくのない笑顔で(^^♪
そんな、佐藤渓輔さんを、私たちは陰ながら、応援し続けていきたいと思います!

おまけ(^^)

旧釜ケ台小学校敷地内に展示されている「埋もれ木」

ネコが気持ちよさそうに、お昼寝していました^^

現在、「ひの里」事務所がある、“はんの木”裏手に咲く紫陽花

取材した日は、7月末日でしたが、まだ紫陽花が鮮やかに咲いていました♪

にかほ市冬師・釜ケ台地域については、こちらをご覧ください!
秋田のがんばる集落応援サイト → にかほ市冬師・釜ケ台地域

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