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豊島スエノのまり・斎藤ユキノのまり~あなたの知らないごてんまりの世界④~
豊島スエノのまり
豊島スエノのまりは石沢地区鮎瀬に連綿と伝わっていた「かけまり」です。「かけまり」は糸を「かける」ように巻き付けてまりを丸めていくところから生まれた言葉だそうで、「明治時代まで農村の手芸品として見られた」(注1)ものだそうです。
その鮎瀬に伝わるまりは、そのむかし石沢村鮎瀬に住んでいた広田庵の木妙尼(もくみょうに)が村の娘たちに教えたのが始まりだと言われています。(注2)
この木妙尼から伝えられた「かけまり」の技術を豊島スエノさんが受け継いでいましたが、このままでは鮎瀬に伝わる「かけまり」の技術が絶えてしまうと言う危機感があり、娘の大門トミエさんを呼び寄せて技術を教えました。
昭和39年3月20日の『市政だより』には、「広田庵の木妙尼がそのむかし村娘に伝えた」まりの説明として、「十字手裏剣」「狐の道知らず」「十六足の単菊」を紹介しています。
鮎瀬に伝わる伝統のまりは、昭和39年に石沢地区で行われたごてんまり講習会で参加した約180人にその技術が伝えられ、農閑期の内職として石沢・小友地区で発展していきました。(注3)
斎藤ユキノのまり
斎藤ユキノのまりは、昭和36年の米まつりの前に、日役町の蔵堅寺に古くからあったまりを児玉八重子が借りてきて、斎藤がそれを真似てつくったのが最初です。そのまりは昭和36年の米まつりに出品し、入賞しました。
蔵堅寺のまりは、どこかの土産品として買ってきたのか、あるいは頂いたもので由来は定かではないそうです。
『本荘時報』昭和37年8月19日付の記事で斎藤は、自分たちのまりの特徴として、「リリアン糸で菊花模様を刺繍したもの」と述べています。
斎藤は国体後にグループを結成しましたが、十日に一度作品を持ち寄って合評会を開き新しい模様を作り出すなど、伝統にこだわらず、自由な発想のまりが斎藤のグループの特徴でした。
ごてんまりを作った女性たち
この二人は「決して混ぜ合わせることの出来ない二つの源流」として紹介しましたが、源流が異なるだけで、二人の間にまったく交流がなかったわけではありません。
昭和36年の国体に向けて、市からごてんまりの製作を両者とも依頼されていますし、豊島の娘大門トミエと斎藤は、二人とも料亭「甚能亭」で働いており、二人は友だちでした。ともに生活の手段として懸命に製作に励んだそうです。
昭和36年の国体で全国的に名を知られることになった本荘のごてんまりは、昭和39年には東京オリンピックでの販売に向けて、中央の業者から大量の注文が来たり、海外輸出の話がまとまったりと、一大ブームを迎えていました。この注文に応えるために、昭和40年時点で年産一万個もごてんまりが作られていたという記録もあります。(注4)
そうして「(旧)本荘市の代表的な伝統工芸品」として揺るぎない地位を確立したごてんまりは、市のマンホールや街灯など、地域のインフラにデザインとして取り入れられるまでになりました。
最後に2002~10年年度に本荘郷土資料館で資料調査員を務めた石川恵美子さんの言葉を引用して、このシリーズを終わりたいと思います。
以下引用
「初期のごてんまり製作を担った女性たちには、豊島スエノ、大門トミエ、斎藤(田村)ユキノ、石塚弥栄子(=児玉八重子)をはじめ、小松この枝、菅原スミ、猪股悟、小野アキ、小杉ツギらがおり、手記を読んだり、話を聞いたりしてみると、何度も挫折を繰り返しながら、苦労して自分の作品を買い取ってもらっている。誰しも決して道のりは平坦ではなかったのである。しかし、話を聞くことのできた女性たちは、ごてんまりの話になると、生き生きとそして誰もが楽しそうに当時のことを語ってくれる。昭和の高度成長期に、ただの女性の手内職としてばかりでなく、女性の生きがいとして成長した本荘の産業が、『本荘ごてんまり』だったのである。」(注5)
(注1)『市政だより』昭和36年3月31日
(注2)『市政だより』昭和39年2月7日
(注3)『市政だより』昭和39年2月7日
(注4)『週間時事』昭和40年3月13日
(注5)石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第四号 2011年本荘由利地域史研究会 p.56