秋田の特異点・大潟村はどのようにして生まれたのか
大潟村は秋田県において非常に際立った存在である。
2014年に日本創世会議(座長・増田寛也元総務相)がまとめた人口予測では、秋田県内で唯一「消滅可能性都市」を免れた。
消滅可能性都市とは、20〜39歳の女性の数が、2010年から2040年にかけて5割以下に減る自治体のことを指す。
秋田県内の25市町村のうち、秋田市を含む24市町村が20〜39歳の女性人口50〜70%台の減少率となったのに対し、大潟村だけが15.2%増とプラス予測だった。
加えて大潟村は県内で平均所得がもっとも高い。総務省が発表した2019年度の「市町村課税状況等の調」によると、大潟村の平均所得は340.2万円で2位の秋田市294.4万円を大きく引き離した。3位のにかほ市は276.8万円、4位の由利本荘市は259.5万円である。
なぜ大潟村はこれほどまでに突出しているのだろうか。
ずっと疑問に思っていたのだが、谷口吉光著『八郎潟はなぜ干拓されたのか』さきがけブックレット④ 2022年3月 秋田魁新聞社を読んで、その疑問がかなりの部分で解消された。
それはこの本が干拓した側ではなく、干拓された側の視点から大潟村の成り立ちを語っているからである。
大潟村は八郎潟を干拓してできた100%人工の土地であり、「八郎潟はなぜ干拓されたのか」を語ることは、大潟村の成り立ちについて説明することと同義である。
しかし大潟村の成り立ちについては、これまで大潟村の干拓博物館で展示・説明されているような「干拓した側」「入植した側」の歴史ばかりが語られてきた。
大潟村の成り立ちについて、干拓された側の視点から書かれた歴史というのは非常に珍しい。
干拓された側の視点から大潟村の成り立ちを語ること、つまりもともとあった"秋田"の側から大潟村を語ることで、秋田県における大潟村の特殊性がよりくっきりと浮かび上がったように感じられた。
だからわたしはこの本を読んで長年の疑問が解消されたような、納得感を得ることができたのである。
今回はわたしがこの本を読んで「なるほど」と思ったり、興味深く感じた点を中心にまとめていく。
その分わたしがあまり興味を惹かれない部分ーー漁業や大潟村と周辺地域の自然環境、各干拓案の詳しい解説ーーに関する部分はかなり端折ってしまったので、興味を持った方はぜひ本書を読んでみて欲しい。
『八郎潟はなぜ干拓されたのか』まとめ
大潟村は1957(昭和32)年に干拓工事が始まり、1964(昭和39)年に南秋田郡大潟村として発足した。
干拓される前の大潟村は何だったのかと言うと、もともと琵琶湖に次ぐ日本第2の広さを誇る八郎潟だった。
本書では八郎潟周辺に人が住んでいたという一番古い記録として、石器時代から八郎潟を振り返る。八郎潟周辺に住んでいた人たちは4世紀くらいになって稲作が始まると、湖岸の低湿地帯で稲作をしながら暮らしていたと考えられる。
今八郎潟周辺にある集落のほとんどは江戸時代、あるいはもっと前からあり、少なくとも500年以上続いてきた地域であるらしい。大きな集落のほとんどは湖岸の低湿地帯にあったことから、人々は昔から「半農半漁」の暮らしをしてきただろうと考えられる。半農半漁の暮らしは厳しく、なんとか漁獲量と稲の収穫量をあげようという努力がなされた。
江戸時代は米が経済の基本だったため、新田開発が盛んに進められていた。米の増産のために「地先干拓」が行われたが、それは個人単位のごく小規模なものだった。
明治時代にも農地を増やすため数種類の地先干拓が試みられた。この時干拓した農地は個人のものになるのではなく、村が所有して村がその人に払い下げるという形をとった。江戸時代から明治時代における八郎潟周辺の地先干拓は、地元主体・村主体の干拓だった。
これとは別に、明治以降国家主導の干拓というのも行われた。
八郎潟は大変広いのに水深は一番深いところでも約6メートルしかないという、非常に干拓に適した地形である。それゆえ干拓の適地としてずっと中央政府から目をつけられていたと言って良いだろう。
1941(昭和16)年に太平洋戦争が起こるなど、当時は戦争が拡大して食料輸入がいつストップするかもしれないという危機感があった。食料増産が至上命題であり、大胆な干拓事業が計画された。
太平洋戦争に負けると、朝鮮、台湾、中国大陸などの植民地を失ったために、政府はいよいよ食料自給対策を立てる必要に迫られた。
1946(昭和21)年には全国で国営干拓事業を開始し、千葉県印旛沼、九州有明湾、岡山県児島湾などがこの時干拓された。しかし八郎潟は漁業者の反対が強く、秋田県知事が干拓予算を返上せざるを得なかった。
この中で現実化したのは⑥の「ヤンセン案」である。
ヤンセンとは当時のオランダのデルフト工科大学の教授だった人の名前である。
1951(昭和26)年に日本はアメリカなど48ヵ国とサンフランシスコ平和条約を結んだが、オランダとの関係修復が大きな課題となっていた。戦争中、日本はオランダの植民地だったジャワ、スマトラを占領し、戦争後にそれらの土地は独立してオランダはアジアの植民地を失ってしまったことから、日本に対して深刻な悪感情を抱いていた。
当時の総理大臣・吉田茂は、オランダ国民の悪感情を何とか緩和しようと、オランダの干拓技術の高さに目をつけた。農林省を通して「軟弱地盤で堤防を建設する権威者をオランダから招きたい」とオランダ政府に要請したところ、ヤンセン教授が八郎潟にやってくる運びとなった。
1954(昭和29)年に八郎潟を視察に訪れたヤンセン教授は、八郎潟を全面干拓する「師岡案」に賛成した。しかし「師岡案」を提出した農林省農林技師・師岡政夫は、「全面干拓は沿岸漁民の反対が出る」と慌てた。
その結果、ヤンセン教授は水面を残すという妥協案を受け入れ、調整池を南側に移すという「ヤンセン案」を作った。この時注意したいのは、「ヤンセン案」では調整池を漁場ではないとしたことである。八郎潟南部に置かれた調整池は、「洪水調整兼灌漑用貯水池」であるとされた。
ヤンセンが残した八郎潟干拓に関する所見を読むと、この機会に八郎潟の漁業はやめて、漁業者に対しては干拓地の配分で対応しなさいと読める。
大潟村だけでなく周辺にも地先干拓を造成し、大規模な地形の改変となった。
「ヤンセン案」によって現在の大潟村、八郎湖、周辺地域の構造が固まった。漁業の消滅、干拓地からの農業排水の増加、富栄養化や水質悪化など現在の八郎湖の水質問題や環境問題の種はこの「ヤンセン案」にすでに播かれていた。
1952(昭和27)年から1955(昭和30)年の間、地元では干拓賛成派と反対派に分かれて対立していた。
対立の争点は「漁業の存続か農業の振興か」であった。しかし農業振興への時代的な熱い期待もあり、反対派の漁師たちの要求は、満足できる漁業補償と農家として暮らしていける農地配分へと移っていった。
漁業補償の配布では大混乱が生じた。
農地配分についても二転三転した。1954(昭和29)年に採択された「ヤンセン案」に基づく入植計画では「干拓地には干拓によって生計の途を失う漁民と、付近の農家の二男・三男の入植と既存農家の増反を行う」とされていた。
その際一戸当たりの配分は水田2.2ヘクタールと畑の0.3ヘクタールで合計2.5ヘクタールだった。(現在の大潟村の農地面積は一戸15ヘクタールが基本である)
時代背景としては、太平洋戦争が終わって引揚者が戻ってきて、戦後の第一次ベビーブームが起こる。干拓を進めるにあたり、地元の人々には「二男・三男を入植させるから賛成してくれ」と説明した経緯があった。
しかし時代が進むにつれ、全国から優秀な農民を集める「モデル農村」へと計画は変質していった。1960(昭和35)年に池田勇人首相が「高度成長・所得倍増計画」を出した後の農林省の「八郎潟干拓委員会」では「優秀な青年たちを訓練して、新しい時代にふさわしい農村を作る」「日本の農業のモデル」「30ヘクタールずつ12戸で水田酪農に共同利用」「入植者は原則30歳未満の優秀な農村青年を採用する」などの方針が決定されていった。
これは当時の秋田県知事・小畑勇二郎が干拓事業を何とか国営事業にしようと尽力したことが影響している。国営にしたために、入植者の基準や農地の配分の議論を農林省が主導するという結果になった。
1963(昭和38)年になると農林省から「一戸あたり10ヘクタール配分したい」などという、一層飛躍した案が報告された。この数字は周辺農民とあまりにもかけ離れたものだった。
この計画変更は周辺住民の失望と抗議を生み、干拓後の大潟村と周辺地域の心理的壁を生み出す結果となった。
この本は最後に、片野健吉「八郎潟干拓と周辺地域の社会変動」から次の言葉を引用して終わっている。