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かつて、ごてんまり騒動があった~あなたの知らないごてんまりの世界③~

昭和37年8月25日付『本荘時報』に、「ごてんまり騒動落付く」(原文ママ)という記事があります。

その記事には、「本荘市役所の小松商工課長は、本家争いで話題をまいた“本荘ごてんまり”の収拾策を、二十三日つぎのように語った。」とあり、「文化材保護協会が、民芸品として保存するには今後に充分な専門筋の調査を必要とするので、一個人の創始ということでなしに、観光みやげ品として作っている婦人全部を対象に取り扱っていくことに、唯いま市長と話し合ってきた。」と書いています。

この記事には、今まで通説のように語られてきた、奥女中やお城のことなどは一切出てきません。“本荘ごてんまり”の創始について、「観光みやげ品として作っている婦人全部を対象に取り扱っていく」ことを、当時の市長が了解した旨が書かれています。
つまり、昭和37年8月25日を少し遡るころに「ごてんまり騒動」と呼ばれる本家争いの騒動があり、観光みやげ品として(手まりを)作っている婦人(たち)に創始されたと認めることで、騒動に決着をつけたことが分かります。

この「ごてんまり騒動」は、当時なされていたごてんまりの報道をめぐって、斎藤ユキノ(旧名:田村正子)と児玉八重子(旧姓 石塚)が連名で当時の佐藤憲一本荘市長に提出した抗議文に端を発しています。

昭和37年5月23日『秋田魁新報』に、「望まれる保護育成 製作者県内でたった二人 御殿マリ」という見出しの記事があります。その記事には、「県内でもこの製作者はわずか二人だけとなり、なんらの保護がなされなければ手法は滅びようとしている。二人の製作者は本荘市後町大門トミエさん(四八)と母親の豊島スエノさん(七六)で、これもスエノさんが“このままでは御殿マリ(地元ではこう呼んでいる)が忘れられる”と昨年春に娘のトミエさんに作り方を伝授したというから、いうならば一子相伝なわけだ。」と書かれており、秋田県内の「御殿マリ」製作者が、豊島・大門母娘の二人だけであると紹介しています。

しかし、当時“ごてんまり”を製作していたのはこの二人だけではありませんでした。市の観光協会の説明(2020年11月13日閲覧)


こちらを見ても分かるように、市は昭和36年の国体に向けて豊島スエノさん母娘だけでなく、斎藤ユキノさんにもごてんまりの製作を依頼していました。


(以下引用)
「昭和36(1961)年に開催された秋田国体では、本荘市が卓球、ソフトボールの会場になりました。
本荘市は、国体の記念品として「土地がらを現わしている昔ながらの“ごてんまり”を贈呈する」ことにし、豊島さんと斎藤さんらに製作を依頼しました。製作された“ごてんまり”は、本荘に宿泊していた国体チームの監督に記念品として贈られ、各地へ持ち帰られました。
そうして持ち帰られた“ごてんまり”は、多くの人に素晴らしさを認められ、全国にその名を知られるきっかけとなりました。」


“ごてんまり”の製作者に関して、斎藤ユキノの名前に一切触れない報道をしたのは、前述した昭和37年5月23日の『秋田魁新報』だけではありません。本荘市が発行した昭和37年7月27日付『市政だより』では、「本荘市鮎瀬豊島スエノさん(七六)の手芸“ごてんまり”を市独特の手芸品として残したいと市文化財保護協会や観光協会とその方法を研究している。」という記事を掲載しています。
斎藤は、国体の際には友だちと二人でごてんまりを作っていましたが、国体終了後には友だちと誘い合って、趣味と内職をかねたグループを作っていました。(注1)

国体終了後に記事として取り上げられたのは、豊島・大門母娘だけだったことと、事実が正しく伝えられていないことに抗議して、昭和37年8月12日、斎藤と児玉が連名で当時の佐藤憲一本荘市長宛てに文書を提出します。
詳しく紹介すると煩雑になるので、抗議内容の要点として、重要と思われる以下2点のみご紹介します。

① 昭和37年7月27日付『市政だより』の「まり」の写真は、斎藤が蔵堅寺にあった「まり」をまねて作り、昭和36年の米まつりで入賞したものであり、豊島スエノさんが作っている「まり」とは、全く趣を異にすること。
② 豊島スエノ・大門トミエの二人だけが「まり」を作っているわけではなく、自分たちも作っていること。そして、それは貴重な内職収入源であること。


これがいわゆる「ごてんまり騒動」です。
騒動の結末は、最初に述べたように観光みやげ品として(手まりを)作っている婦人(たち)に創始されたと認めることで、決着がつけられました。

わたしは初めてこの「ごてんまり騒動」を知ったとき、この由利本荘市でもそんなに白熱した戦いがあったんだ! と妙に興奮してしまいました。
騒動の収め方も、「一個人の創始ということでなしに、観光みやげ品として作っている婦人全部を対象に」というところに、なんとなく日本的というか、秋田っぽさを感じてしまいます。

市の歴史としても重要な出来事なのに、あまり知られていないのが非常に残念です。
次回は決して混ぜ合わせることの出来ない二つの源流、豊島スエノと斎藤ユキノのそれぞれのまりについて書きたいと思います。


(注1)『週間時事』昭和40年3月13日
参考文献
「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第四号 2011年本荘由利地域史研究会


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