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本荘のごてんまりをめぐる言説

なお、民芸品の手まりが、「ごてんまり」の名称で吊るし飾りに加えられたのは、昭和三十六年(一九六一)の秋田国体開催時に各選手団の監督に本荘の民芸品としてお土産に進呈した頃からである。それまでは「手まり」と云われていた物であるが、昭和二十一年(一九四六)に朝日新聞の記者であった木村与之助(後、本荘町や市の広報担当)が民俗学者の柳田国男に自慢のできる民芸品として、手まりを「てんてん手まりのてんまりです」と紹介した際、柳田が「てんまりネ、ごてんまりネ」と応じたと云う。それを印象深く覚えていて、昭和の国体時に「本荘市の民芸品ごてんまり」称したのが始まりで、「強いていえば名付け親は柳田国男先生だ」(市文化財保護協会機関誌『鶴舞』第十一号「ごてんまり物語り」木村与之助著)。
当然「ごてんまり」については、江戸時代はもとより明治・大正・戦前の数万点を超える市史史料にも出てこない。
この地本荘の創建者が本城豊前守満茂であることを知らしめたのは『本荘市史』編纂の賜であると自負しているが、市勢要覧や観光パンフに「一六一三年(慶長十八)本城城に移った本城豊前守満茂の御殿女中たちが、遊戯用のまりとして作ったのが始まり」(平成十八年三月発行「由利本荘市勢要覧」)等の記述は、「ごてん」を「御殿」と曲解した旺盛な想像力の持ち主が作文した結果である。

今野喜次「本荘八幡神社祭典と傘鉾――傘鉾の復活を願って――」『由理』三号 平成22年12月 本荘由利地域史研究会 p.36-37

ごてんまり騒動落付く
グループ対象に扱う
本荘市役所の小松商工課長は、本家争いで話題をまいた”本荘ごてんまり”の収拾策を、二十三日つぎのように語った。
小松課長の話
文化財保護協会が、民芸品として保存するには今後に充分な専門筋の調査を必要とするので、一個人の創始ということでなしに、観光みやげ品として作っている婦人全部を対象に取り扱っていくことに、唯いま市長と話し合ってきた。

昭和37年8月19日『本荘時報』

かけまり保存へ
テンテンテンマリ、テンテマリーの童謡で有名な”かけまり”もゴム工業の進出で影を失つた。このかけまりは明治時代まで農村の手芸品として見られたものだが、いまではほとんど見られない。これは市内石沢地区・鮎瀬豊島スエノさん(七四)が孫たちに相伝するために作ったものだがローカル味たつぷりなまりである[写真は話題のかけまり]

昭和36年3月31日『市政だより』

ごてんまり保存
本荘市鮎瀬豊島スエノさん(七六)の手芸”ごてんまり”を市独特の手芸品として残したいと市文化財保護協会や観光協会とその方法を研究している。このまりはむかしのご殿女中達によつて作られたものと伝えられゴム工業の発達でこの世から姿を消す運命にあるもの。

昭和37年7月27日『市政だより』

市政だよりに紹介された「まり」は三十六年の米まつりの前に日役町の蔵堅寺の古くからありましたまりを私(石塚)が借りて来まして、田村がそれを真似て作り米まつりに出品しましたところ、実行委員長であるあなたから、賞状を頂いたのでございます。
(中略)若し、市文化財として保存した後に、私どもでない創作者を名乗る人が出たらとしたら、おかしなことになりはしないでしょうか。
あるいは、どうせ創作者不明に落付くことであるから、問題はないと片付けることなのでしょうか。
この間の事情というものは、市政だより編集の木村与之助さんが最も詳しい筈でございます。

田村・石塚による抗議文 昭和37年8月12日 ※石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第4号 2011年12月 本荘由利地域史研究会より


本荘の御殿まり入賞 県観光みやげ品展で
この程まで、秋田市にひらかれていた県観光みやげ品展で本荘のごてんまり研究会(代表田村ゆきのさん)が出品したごてんまりが入賞、北日本航空から激賞された。田村さんは、昨年の米まつりでも入賞している。
田村さんの話/この度の出品は、石塚弥栄子さんとの共同作品です。私どもの御殿まりは、昨年の国体前に、日役町の蔵硬寺さんに古くからあつたものを手本に何時頃からあつたものかまた、買ったものか土産に頂いたか判らないということでした。
今後同好会の人と手を取り合つて、隣の山形県に伝わるような見事なごてんまりを創り上げ、販路も開拓して行きたいと念願しております。

昭和37年8月19日『本荘時報』

昔、御殿女中がヒマつぶしにつくった遊戯用のマリからそうよばれている。慶長十七年、楯岡前守満茂が本荘城へ移ったさいに伝わったといわれている由利地方では、明治ごろまでは商家の主婦たちの手で家庭内の装飾品としてさかんに作られていたもので、最近また民芸ブームにあおられて土産品として脚光をあびてきた。

昭和38年11月1日『あきた』十一月号(通巻十八号)秋田県広報協会

ごてんまりは、その昔慶長十七年、楯岡豊前守満茂公(たておかぶぜんのかみみつしげこう)が本荘城へ移ったさい、ご殿女中がヒマつぶしにつくった”遊戯用のマリ”で、これが本荘地方の一般住民に広く伝わったとされている。明治末期までは本荘地方の商家を中心に手内職に作られ、子どものマリつきや家庭の装飾品の一つとして愛用されていた。その後は次第に忘れさられ、昭和になってからはわずか一、二の民家で遊び半分細々と作るだけになってしまった。

「本荘の”ごてんまり”海外からも注文殺到 郷土の民芸品育成の機運高まる」昭和39年2月10日『秋田魁新報』

三百五十数年まえの慶長十七年(一六一二)、楯岡豊前守満茂が本荘城へ移ってから、御殿女中がひまつぶしに、遊戯用につくりだしたようです。これが本荘地方の一般民衆にも広く伝わり、明治の末期までは、子どものまりつきとか装飾用に内職でつくられてきました。

(ごてんまりについて語る本荘市商工課商工係長の浅香朝光氏の言葉)昭和40年3月13日『週間時事』

(浅香朝光の話)この文章は、昭和三十九年二月十日付『秋田魁新報』の記事と、うりふたつであることにお気づきであろうか。昭和四十年に入り、本荘市商工課は、『秋田魁新報』に掲載された「本荘のごてんまりの由来」をそのまま使用したのである。『秋田魁新報』の記事は、もともとは、取材不足で事実誤認の甚だしい昭和三十八年の『あきた』十一月号に掲載された記事を転載したものであっただけに、本荘市商工課は、その間違った情報を採用してしまったのである。
これに対して、木村与之助は、先にも説明したが、昭和四十年四月二十六日、秋田放送テレビに出演することによって、「木妙尼説」を再論する(史料12)。
こうした木村の主張が尊重されたのか、本荘市の市勢要覧において「満茂説」が登場するのは平成元年頃からである。(17)しかし、昭和五十六年に『秋田百科大事典』(秋田魁新報社編)に「満茂説」が掲載されたこともあり、平成元年以降は、市の公式見解は「満茂説」を採用している。

石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第4号 2011年12月 本荘由利地域史研究会 p.50-51

本荘市の場合は、昭和三十四年、田村正子さん(現姓斎藤)と、勤め先の同僚児玉八重子さん(現姓石塚=故人)が親戚の本荘市日役町蔵堅寺の庫裡にすすけて転がっていた古ぼけたまりを復元したのがはじまり。
いま本荘まりの特徴だといわれている三方に房を下げることを考案したのも田村さんだ。
これを秋田市の田中企業がとりあげ秋田の特産みやげとして次第に名声を博してゆくが、本荘市でもこれに着目、内職としても格好のものだとこれ宣伝につとめ、昭和三十六年、秋田県国体では、グループで量産し大好評を博したのであった。
それはそれでよいのだが、「ごてんまりの由緒」を楯岡豊前守時代(慶長十七年=一六一二)まで歴史的位置づけを行ってしまったのである。昭和四十五年には”瓢箪から駒”が出て第一回全国ごてんまりコンクールが開催された。
観光行政としての”本荘まり”は大成功であったかも知れないが、そのカタログに由緒を捏造、牽強付会するなど関係者たちの”愛市精神”の発露であるにせよ許されることではない。

高野喜代一『私記 北京 宮古島 家郷』1995年 秋田文化出版 p.320-321

開発者を置き去り
「ねつ造」とは、根も葉もない事を事実だとすることでつまり「でっち」あげる事だ。
本荘市主催の第三十一回全国ごてんまりコンクールには、二十三都府県から、二百三十九人(四百十四点)が出品された。
「その由来は慶長十九年(一六一四)本荘城の楯岡豊前守満茂の御殿女中が遊ぶために作ったものと市が宣伝。」これを各新聞社が報じ又、大新聞社の『秋田百科大辞典』がのせたこともあって、今の盛況をみたもので市の功績大である。にも拘わらず敢えてここに事実を明らかにしておく必要を感じペンをとったわけである。
                           
(H12,11,20)

高野喜代一『評論 青銅刀子』高野写真印刷 2003年 p.72

まりはつくものでさげるものではないので、房をつけるのは原則として邪道だが昨今のように部屋の装飾用としての用途からすればこれも止むを得まい。

昭和40年4月25日『本荘時報』

民芸品である以上、乱作は禁物、あくまでも本荘のごてんまりは天下の美術品である…という風格を持たせることが商品としての将来性に結びつく。

昭和40年4月25日『本荘時報』


柳田先生とまり
昭和二十一年、そのころわたしはA新聞社の地方記者であった、通信局長会議で上京した際、A社の社友である柳田国男先生に”秋田で自慢のできる民芸品にどんなものがあるのか”と質問されて突差に、
  銀細工、川連漆器、樺細工、手まり
と答えた。柳田先生は銀細工も川連漆器も樺細工も知っておったが”手まり”といわれて妙に気を引かれたようだった。それはどんなものか――ときかれたので、
  芯がゼンマイ綿で毛糸で模様編んだ風雅なものです。
といったら、
  ”それが今でも残っているのか”
といわれて
”ハイ”と答えた。先生は
  ”てんまり…といったネ”
というから
  ”てん、てん手まりのてんまりです”
というと
  ”てんまりネ、ごてんまり・・・・・ネ”
と首をかしげた、これは柳田先生が”ごてんまり”という名詞をさしたのではなく、わたしが答えたてんまりに敬称のごをつけただけの話である。しかしわたくしには先生が妙に関心を持ってごてんまり・・・・・といったのが印象に残った。帰郷してから雛箱の中をさがしたら祖母の造った古いまり・・があったので、柳田先生に送った。

木村与之助「ごてんまり物語り」『鶴舞』第11号 昭和37年10月 本荘市文化財保護協会

芽を出したごてんまり
昭和三十五年の暮、わたくしは忘れかけていたこのまり・・を見た、そして柳田先生を思い出した。製作者をきくと市内の鮎瀬の豊島スエノさんということがわかった、年をきくと数えて七十四歳だという。市政だよりで紹介したのは昭和三十六年三月三十一日である。昭和三十六年十月七日、スポ-ツの日制定記念の体操祭が本荘市で開催され、その翌日から第十六回の国体が開かれた、本荘会場では卓球とソフトボール大会が催されたのだが市の実行委員ではこの時”本荘市の民芸ごてんまり”と称し各選手団の監督に記念品として贈った、正式に言って世間に”ごてんまり”という名を使ったのはこの時が始めてで、明治時代から御殿まり・・・・という名があったというのはどう考えても誤りの様である。強いていえば名付け親は柳田先生だ――とわたくしは思う。だから”まり”は全国いたるところにあるのかもしれないが”ごてんまり”の名称は本荘だけのものだとわたくしは固く信じている。

木村与之助「ごてんまり物語り」『鶴舞』第11号 昭和37年10月 本荘市文化財保護協会

本荘の殿様、六郷氏の初代六郷正乗候が、元和元年常陸から本荘に転封されてきたが、御殿様と奥女中さんたちが、関東から御殿マリの製作法を本荘に伝えた。六郷候は代々庶民的な殿様だったらしく城下町と親密に交流したため、この製法も本荘近辺の農商家に伝えられ、民芸的かおりの高い御殿マリは庶民の中にも伝統的に製作されてきた。

昭和37年5月23日『秋田魁新報』

県内でもこの製作者はわずか二人だけとなり、なんらかの保護がなされなければ手法は滅びようとしている。
二人の製作者は本荘市後町の大門トミエさん(四八)と母親の豊島スエノさん(七六)で、これもスエノさんが”このままでは御殿マリ(地元ではこう呼んでいる)が忘れられる”と昨年春に娘のトミエさんに作り方を伝授したというから、いうならば一子相伝なわけだ。

昭和37年5月23日『秋田魁新報』

本荘の「ごてんまり」
本荘の「ごてんまり」は、赤白の房が三方に下がる華麗さと、模様の美しさで知られ、江戸時代初期の慶長十八年(一六一三年)に本荘城へ移った楯岡豊前守満茂の御殿女中達が、遊戯用の手まりとして作ったのが始まりと言われています。
毎年十一月に、由利本荘市で開催される「全国ごてんまりコンクール」には、全国各地から「ごてんまり」が出品され、その美しさを競っており、丸いごてんまりは、円満の象徴としてお祝い品や装飾品としても愛されています。

2007年秋田わか杉国体で販売・配布されたごてんまりの携帯ストラップに添付された言葉

御殿まり ごてんまり
本荘市に伝わる民芸品。モミ殻をシンにした紙の球を作り、その上に色とりどりの手芸用組み糸を太い針で縫い込む。多種多様な糸模様の美しさが特徴。現在はぶら下げておく装飾用だが、本来は遊具だった。一六一三年(慶長十七)本荘城に移った楯岡豊前守満茂の御殿女中たちが遊戯用のまりとして作ったのが始まりとされ、当時はゼンマイの綿を詰めた球に絹糸を使った。藩政時代からの糸模様としては、菊模様、キツネの迷い道、三つ割り、四つ割り、六つ掛け、クモの巣掛けなどがある。菊模様は、球を一六等分して縫う一六掛けから描出される一六弁の菊花模様。本荘市周辺の農村主婦が内職に作っている。御殿まりは全国各地にあるが、まりの三方に白い房が下がっているのは本荘の御殿まりだけ。毎年、十一月に本荘市で、全国御殿まりコンクールが開かれる。〈佐藤正〉

『秋田大百科事典』昭和56年 秋田魁新報社 p.341-342
 

したがって、「満茂説」は、童謡「鞠と殿様」による先入観から生まれ、本荘市が歴史的裏付けをしないままに、取材不足のマスコミが勝手に物語を作り、それを転載することによって広がった全くの虚構と結論付けられるのである。

石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第4号 2011年12月 本荘由利地域史研究会 p.52

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