月のうさぎの宅配便 〈4144字〉
――このままじゃ間に合わない。
暗い寝室のベッドの中で、謙介は焦りを募らせていた。
応募する予定の文学賞の締切が一か月後に迫っているというのに、原稿はおろか物語の欠片すら浮かばないのだ。コンピュータの画面を前に、ただ空しく時間が過ぎる毎日が続いていた。
俺、才能ないのかな……。
謙介はため息をつくと、億劫に寝返りをうった。何だか窓から差し込む月明かりがいやに明るい。寝たままちらりとカーテンをめくると、見事なまでに丸い月が煌々とした光を放っていた。
満月か……。
謙介はもう一度ため息をついてカーテンを閉めると、重い気分のまま寝るともなく目を閉じた。
こんこん こんこんこん
いつの間にか寝入りかけていた謙介は、枕元の硬い音ではっと目を開けた。どうやら外から窓ガラスを叩く音のようだった。だがそれはおかしい。この部屋は三階にあるのだ。恐る恐るベッドから身を起こした謙介は、カーテンを閉めたまま外の様子を窺った。
こんこん・ササキさん・こんこんこん・宅配便です
謙介は耳を疑った。
宅配便?こんな夜中に? いや、そもそもここは玄関じゃない。
だが窓の向こうには、確かに細長い影がくっきりと映っている。ためらいつつも、謙介はそっとカーテンの陰から外を覗いてみた。
――窓の外にいたのは一匹の白いうさぎだった。ススキを束ねた箒のようなものに跨り、月明かりの中にちんまりと浮かんで、しきりに中の様子を窺っている。
夢でも見ているのかと首をひねっていると、気配を感じたのかうさぎがさっとこちらを振り向いた。目が合うや、いたいたとばかりに茶色の包みをかざしてみせる。謙介は観念してカーテンを開けた。
窓を開けると、冬の夜のきんとした冷気に思わず身が竦む。だが当のうさぎは寒さなど気にもしない様子で、きびきびと包みを差し出した。
「こんばんは。月のうさぎ宅配便です。夜分に申し訳ありません」
謙介は唖然とした。月のうさぎ宅配便なんて聞いたこともない。そもそもうさぎが配達って何だ。『不思議の国のアリス』じゃあるまいし。
だが目の前のうさぎは、実際に”月のうさぎ宅配便”とロゴの入ったクリーム色の上着を着こみ、ご丁寧に同じ色の帽子まで被っている。
「あの、何かの間違いなんじゃないかな。通販頼んだ覚えもないし、しかもうさぎが宅配って……」
混乱しつつも何とか謙介が言葉を引っ張り出すと、うさぎは大きな瞳をくるくると動かし、鼻をひくひくさせた。
「間違い?こちらはササキケンスケさんのお宅ではないですか?」
名前まで挙げられ、謙介はますます困惑した。
「いや、それはウチだけど。でもうさぎの宅配なんて普通あり得な……」
「じゃあ間違いないですね。こちら満月堂様からのお届け物です」
戸惑う謙介の言葉を遮るように、うさぎは包みをぐいっと押し付けた。
満月堂?何だそれは。
「中に説明書が入ってますから、ご利用前に必ずご覧下さい。じゃ、受取印お願いします」
帽子の穴から突き出た長い耳をぱたぱたと揺らし、うさぎはポケットから白い小さなかたまりを差し出した。
「何これ」
「何って受取印ですよ。ここに拇印お願いします」
うさぎのせっかちな物言いに押され、謙介は渋々そのかたまりに右手の親指を当てた。それは予想を裏切ってほんのりと温かく、とても柔らかかった。
「ぐっと押して下さい、ぐっと。これ、つきたてのお餅なんですから」
呆気に取られつつも謙介が力を込めると、表面がぷにょんと凹んで親指の腹の形をくっきりと写し取る。一方、離した親指は打ち粉で真っ白だ。
思わず顔をしかめる謙介にも構わず、うさぎはこれでよしとばかりに、かたまりをポケットにしまい込んだ。
「ありがとうございました。それじゃ失礼します。良い物語を」
「え?だからこれ何なのさ。いい物語ってどういう……」
だが慌てる謙介を尻目に、うさぎはくるりと身軽にUターンするやいなや、さっと飛び立った。
「ねえ、ちょっと……!」
だがうさぎの姿はみるみる小さくなり、やがて満月の夜空に消えてしまった。
ようやく我に返って窓を閉めたものの、どうせすぐには寝られそうもないと悟った謙介は、上着を羽織ってベッドを出た。作業場がわりのダイニングの電気を点け、暖房のスイッチを入れる。テーブルに向かって腰掛けると、届いた包みをまじまじと眺めた。
見たところ、ごく普通の配送用の茶色い封筒だ。
だが宅配便というわりには送り票もなく、宛名も差出人も書かれていない。手に持つと意外にずしりと重かった。謙介は頑丈に貼られた梱包テープをはがすと、中に手を突っ込んだ。
――それは分厚い一冊の本だった。
大きさは雑誌ぐらいだが、おかしなことにタイトルも著者名も書かれていない。ただ濃紺の表紙の下の方に、銀色に光る文字で『満月堂』と記されているだけだ。
訳が判らないけどまあともかく読んでみるか、と本を開いた謙介は思わず目を剥いた。
本の中身はすべて白紙だった。目次も本文もあとがきも、何もない。念のため最後までめくってみたが、どのページも見事に真っ白だった。
「何の冗談だよ、まったく……」
思わず本をテーブルの上に放り出した時、はらりと一枚の紙が床に落ちた。舌打ちしながら拾い上げると『使用説明書』と書いてある。だが説明書と言っても、短い文章が数行並んでいるだけだった。
* * *
このたびは『満月堂』をご利用頂き、誠にありがとうございます。
この本はあなたの創作インスピレーションを覚醒させるものです。本を開いてペンを構えるだけで、あなたの中に眠っている物語を引き出すことができます。
【注意事項】
・執筆はペンなどの筆記具に限ります。
・使用期限(次の満月の夜十二時)までに執筆を完了して下さい。
* * *
謙介は本と説明書を見較べた。
ペンを構えたら物語が書ける?そんな美味い話、ある訳がない。しかも今時手書きときた。こんなの馬鹿げている……でもこのままでは締切に間に合わないことは確実だ。あり得ないとは思うが、もし万が一にでも……。
謙介はもう一度説明書をちらりと見ると、ふらふらとペン立てにあったボールペンに手を伸ばした。
だが本を開いてボールペンを構えた途端、謙介は我知らず叫び声を上げた。まるで映画を観るかの如く、頭の中に物語の場面が鮮明に湧き上がってきたのだ。独創性溢れる設定、魅力的な登場人物とテンポのいい会話の数々、そして意表を突く展開。
思わず引き込まれる内容にたちまち虜となった謙介は、初めの疑いなどすっかり忘れ、すぐに本に覆い被さるようにして書き始めた。熱中するうちにいつしか空が白み始めてきたが、謙介は顔も上げずにひたすら手を動かし続けた。どれだけ書いても溢れる物語の泉が尽きることはなかった。
翌日からも謙介は毎晩物語を書き続けた。
説明書に偽りはなく、満月堂の本を開いてペンを持つと、頭の中で物語がいきいきと動き出すのをはっきりと感じた。
だが常に順序どおり話が浮かぶとは限らない。突然場面が飛んだり、今まで存在すらしなかった人物が唐突に現れることも度々だ。その一つ一つを丁寧に掬い上げて整理し、より洗練された形に直していく。
書いた文章は一晩寝かせて、翌日の夜に読み直してからコンピュータに入力し、そして再び続きを書き始めるサイクルをひたすら繰り返した。推敲は後からやればいい。まずは最後まで書き上げることが第一だ。
慣れない手書き作業で右手が痛み始めていたが、これまでになく書く楽しさを感じていた謙介は、連日の睡眠不足を物ともせず毎晩作業に没頭した。
再び満月の夜がやってきた。
最後の一文をコンピュータに入力し終えた謙介は、思わず大きく息をついた。
――間に合った。
安堵と疲労が同時に押し寄せ、画面から目を離してやれやれと伸びをしたその時だった。
”ぱたん”という音に謙介は、はっと向き直った。
本が閉じられている?いや、さっきは確かに開いていたはずだと訝る謙介の目の前で、本はふわりとテーブルから離れた。
「う、浮いた……?」
本はふわふわとダイニングを漂い、ゆっくりと窓際に向かっていく。訳も判らないまま慌てて謙介が窓を開けると、本は冷えた空気を感じ取ったかのようにするりと外に出た。つられて自分も狭いベランダに出た途端、謙介は冴え冴えとした月明かりに包まれた。見上げると白銀に輝く満月が、しんとこちらを見下ろしている。
すると宙に浮いた本が再び開き、ぱらぱらとページがめくられ始めた。月の光に照らされた文字がひらひらと本から舞い上がる。さながら蝶が海を渡るかのように、白銀に輝く無数の文字たちは月に向かって漂うように遠ざかり、やがて暗い夜空に紛れて見えなくなってしまった。
――かぐや姫みたいだ……。
夢のような光景にぼうっと見惚れていた謙介は、ふと目を凝らした。
消えた文字と入れ替わるように、小さな影がぐんぐんとこちらに近づいてくる。謙介は咄嗟に本を抱え込み、迫る影を見守った。
「こんばんは、ササキさん。どうやら無事に書き終わったようですね」
それは宅配便のうさぎだった。前回と寸分違わぬ恰好で、やはりススキの箒に跨っている。
「うん、おかげ様で……て言うか、その……」
「じゃあ本を回収させて頂きます。どうもお疲れ様でした」
へどもどと口ごもる謙介に構わず、うさぎはせかせかと片手を突き出すと謙介の手からさっと本をひったくり、素早くめくって中を確認した。
「ああ、全部白紙に戻ってますね。完璧です。じゃ、これ」
うさぎは小さな箱を取り出して、ひょいと謙介に手渡した。
「何これ」
「何って完成祝いですよ、満月堂様からの。期限がありますから早めに開けて下さいね。それじゃ失礼します」
そう言うとうさぎは謙介の返事も待たず、小脇に本を抱えてさっとUターンし、あっという間に月に向かって飛び去っていってしまった。
今度は何だろうと謙介が恐る恐る蓋を開けると、中にはうさぎの焼き印がついた丸い餅が、紅白一つずつ詰められていた。指先でそっと押してみると、ぷっくり並んだ紅白餅は柔らかく、まだほんのりと温かかった。