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【#創作大賞2024】蒼に溶ける 第2章 ② 違和感

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「――相変わらずだね、お父さんは。お祖父ちゃんたちやお兄ちゃんの言うことには耳を傾けるくせに、私やお母さんの意見にはぜんっぜん聞く耳持たないよね」

義父の葬儀から半年が経った。すでに四十九日も済ませ、慌ただしい中にもようやく日常が戻ってきつつある。
だが予想どおり、長年連れ添った夫を喪った芳江の体調は、明らかに悪化の一途を辿っていた。いろいろ文句は言いつつも、長く慣れ親しんでいたヘルパーのスタッフが変わったこともその一因のように思えたが、とても晃雄には言えない。また言ったところで聞き入れるとも思えなかった。

そんな母親の様子を心配したのか、娘の結依が有給を取ってひょいと実家に顔を見せたのだ。沙和子もこの娘の手厳しさには時に手を焼きつつも、やはり率直な本音を話すにはうってつけの相手だった。
総天然木のシックなダイニングテーブルに肘をついた結依に向かって、沙和子は嗜めるように言った。

「そういうことを言わないの。お父さんがきちんと稼いできてくれるから、こうしていい暮らしができるんだし。あなたも今でこそ一人暮らしして自立してるけど、それまでちゃんと教育を受けさせてくれたのは、お父さんの収入があってこそなのよ」

だが結依は沙和子の淹れた香りのいいコーヒーを飲み干すと、ふんと鼻で笑った。

「お母さん、いつの時代の話してんの? そりゃ確かにお父さんはお偉いお役人様で、収入も高かったかもしれないよ。そのおかげで何不自由ない生活ができるっていうのはそのとおり。でもさ、人間それだけじゃないでしょ。それこそお母さんだって、ずっと家のこと頑張ってきたじゃない。この広い家を維持して、お祖父ちゃんたちの面倒も見てさ。この今の時代にそんなことやってる人なんて、はっきり言って、もはや天然記念物的存在だと思うけど」

かすかな棘を孕んだ娘の言葉に、温厚な沙和子もさすがに黙ってはいられない。

「お母さんだって、昔は仕事してたのよ。でも家事も育児もお祖父ちゃんたちのお世話もっていうのは大変だったの。世間ではそれでも頑張らざるを得ない人だってたくさんいるけど、幸いお母さんは……」

だが結依はきっぱり首を振ると、沙和子に向かって身を乗り出した。

「それこそウチぐらい余裕があれば、家事代行サービスだって頼めたじゃない。実際、今はそういう家庭も多いでしょ。なんでそうしなかったの? そうすればお母さんだって仕事を続けられたんじゃない?」

沙和子は思わず黙り込んだ。娘に言われるまでもなく、その提案は当時も夫へ何度もしている。だが晃雄は笑って取り合わなかった。その時の晃雄の台詞がまざまざと頭によみがえる。

「何言ってるの、沙和子。君は今時珍しい、専業主婦になれる特権を持ってるんだよ? あくせく働く必要もなければ、わざわざ家事代行を頼むこともない。今の時代、専業主婦ができる家なんてほとんどないんだから。自分が恵まれてるって自覚持ってよ。僕は沙和子に楽な暮らしをしてほしくて、仕事を頑張ってるんだからね」

そういうことではなかった。沙和子は本当は自分の仕事を辞めたくなかった。さほど大きな会社ではなかったが職場の雰囲気もよかったし、育休もその後の復帰も、そしてそれを支えるまわりの社員へのサポートも手厚い会社だった。何より自分が社会に必要とされている認識は、沙和子にささやかな誇りを感じさせた。だが……。

「知ってるよ。でもお父さんが辞めるように言ったんだよね」
「それは……その方が私に負担が少ないからって……わざわざ妻に大変な思いをさせたくないからって……」

沙和子は当時の自分の抱いたモヤモヤから目を逸らすように言った。だが娘の結依は微塵も容赦がない。

「物理的にはそうかもね。でもやりたいことをやらせてもらえないっていう心の負担は果たしてどうか、ってカンジじゃない? これだけ広い家の維持管理をしなきゃいけないとなったら、とても外で働く気なんて起きなくなるだろうし。なんかそこを見越して言ってる気がするんだよね、お父さんって」

ぎくりとした沙和子が黙り込むと、結依は呆れたようにため息をついた。

「――お父さんの狡いところはさ、自分の言うことがぱっと見、お父さんの願望に見えないところだよ。『仕事を辞めてくれ』じゃなくて『君のためには辞めた方がいいと思う』っていう、いかにも相手を気遣ってるような言い回しじゃない、いつも」

「ちゃんと気遣ってくれてるのよ。今まで大きな声を出されたこともなければ、お金にうるさいことを言われたこともない。基本的にはお母さんの好きなようにさせてくれてたわ。そりゃ家事や育児に関しては、今の時代の男の人みたいに女性同様が当たり前、なんてレベルじゃなかったけど……」

だが沙和子の懸命なフォローも、結依にはまったく通じないようだった。

「だからお父さんは判ってるのよ。どう言ったら世間から批判されて、どう言ったら好意的に受け止められるかって。だからいつも綺麗な言葉で取り繕ってるの。でも本音のところは隠せない。有名企業に勤めてるお兄ちゃんのことは高く評価してるけど、訳の判らない小さなデザイン事務所に就職して、しょうもない広告を作ってる娘のことははっきり見下してる」

「何てこと言うの! あなたを見下してるなんて、そんなことは……」

沙和子が思わず声を荒げても、結依は平然とした顔つきで言った。

「ないと言える? この前のお祖父ちゃんの葬儀だって、お兄ちゃんにはずいぶん丁寧にお礼言ったり褒めちぎったりしてたのに、私には『どうもお疲れさん』の一言だけだったけど?」

まるで自分の心の奥底を覗かれたようで、沙和子は気まずげに黙り込んだ。
いろいろ言葉を並べるものの、結局のところ、晃雄は自分に対しても「お疲れさん」としか言っていない。それは構わないのだが、息子の大樹に対する妙に持ち上げた言動が心の隅で気に掛かっていたのは事実だ。その一方で娘の結依に対してはどうにも軽い、いわば自分と同系統の態度だったことも。

結以は母親の戸惑った表情を見透かすように言葉を重ねた。

「そもそもさ、『ありがとう』と『お疲れさん』って、一見どっちもお礼っぽい言葉だけど、よくよく考えると別物だよね。『ありがとう』は感謝の気持ちだけど『お疲れさん』はあくまでねぎらいだもん。ねぎらいが悪いとは言わないけどさ。でもお父さんの私に対するそれは、あくまで上から目線の言葉だよね。昔の時代劇でもよく殿様が言うじゃない。『大儀であった』ってやつ。まさにアレ」

ひどく居心地の悪い状況にもかかわらず、沙和子は思わずぷっと噴き出した。
――大儀であった。
まさに言い得て妙だ。夫の態度は確かにそんな言葉がぴったりだった。鷹揚だが、基本的に上から物を言う雰囲気。どんなに優しい言葉でも。どんなに穏やかな表情であっても。

「なによ。私の言ってること、なんかおかしい?」

くすくすと笑い出した沙和子に、結依がむっとして口を尖らせる。沙和子は慌てて謝りつつも、顔を上げて娘の顔を見た。

「――あなたは家の中のことをちゃんと見てるのね。お母さんは、今あなたに言われるまで、お父さんの普段の態度の何が、どこが自分の中で引っ掛かってるのか、自分でもよく判ってなかったわ」
「まあ、そうかもね。お母さんは根本で人が好いし、何だかんだ言って優しいから。でもやっぱりお母さんも、心のどこかで何か変とは思ってたんでしょ」

――何か変。
たったそれだけの言葉が重く心にのしかかる。沙和子はゆっくりと頷いた。


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