令和青春恋絵巻 〈3997字〉第18回坊っちゃん文学賞撃沈作品①
「はあ……マジで無理……」
紫苑は、ため息まじりに部屋の天井を仰いだ。頭の中に放課後の光景がまざまざと甦る。
「一之瀬さん、隣の席だからって中里君にベタベタしないで。目障りなのよ」
誰もいない教室で、まるで般若のような形相の清原香澄に睨みつけられた紫苑は、才色兼備で名高い香澄の豹変ぶりに言葉を失った。
確かに中里哲哉とは時折会話を交わすこともなくはない。だが顔立ちが良く性格も爽やかな上に、陸上のインターハイ選手である中里は、地味を絵に描いたような紫苑にとってはあまりに眩しすぎる存在だった。せいぜい隣の席で仄かな憧れを抱くのが精一杯というところだ。
だが嫉妬に狂った香澄は紫苑の反論に耳を貸さないどころか、途轍もなく強引な提案を持ち出してきた。何と来週クラスで行われる百人一首大会で勝負しようというのだ。
「あたしが勝ったらあなたはもう彼と話さないで。あなたが勝てばあたしが彼を諦めるわ。それなら公平でしょ」
紫苑と香澄は同じ班だから、勝負自体は可能だ。だが香澄は、実は中学で競技かるた部に入っていたという経歴の持ち主である。勝手な難癖をつけた挙句、自分が圧倒的に優位となる勝負に引きずり込む香澄の傲慢さは、いかに温厚な紫苑とて腹に据えかねた。
それで帰りに百人一首の攻略本なるものを買ってきたのだが、いざ本を開いた紫苑はものの数ページで頭を抱えてしまった。歌の意味どころか読み方すら覚束ない。これらをすべて覚えて香澄と競うことなど不可能に近かった。
「もう、絶対無理っ!」
ヤケを起こした紫苑が、買ったばかりの本を無造作に放り投げたその時だ。
「これこれ、乱暴するでない。殊に儂は眼が見えぬでのう」
「ぎゃっっ」
本の陰から呑気な声がしたかと思うと、くたびれた袈裟を纏った掌ほどの大きさの坊様が、のこのこと現れたではないか。
「な、何これ……」
「無礼な。我ら百人一首の歌人をこれ呼ばわりとは怪しからぬ」
再び声がして、やはり掌サイズの男女が三人、わらわらと湧いて出てきた。一人は弓矢を手にした平安絵巻のような狩衣を着た男、あとの二人は美しい十二単姿の女性だ。
「誰よ、あんたたち。人の部屋に変な恰好で現れて……ひっ」
男が自分に矢を向けたのを見た紫苑は、慌てて口を噤んだ。
「言葉に気をつけよ。我はかの有名な在原業平なり。宮中を虜にしたこの美貌と歌才を知らぬのか」
在原業平?頭の中で歴史と古典の教科書をめくれども、あいにく何の覚えもない。すると片方の女性が、ちょんと前に飛び出した。
「アタシたちは応援に来たの。オトコを巡って勝負を挑まれたアンタのためにね」
「何でそれを……別に私は……香澄さんが一方的に……」
「じゃあアンタはその勝負に負けてもいいの?負けたら彼と話せなくなるんでしょ?それが嫌だから、この本買ってきたんでしょうが」
痛いところを突かれた紫苑は、うっと言葉に詰まった。
「ほら見なさい。それにアンタとアタシは同じ字繋がりって縁もあるしね」
「同じ字?」
するともう一人の女性がゆったりと口を開いた。
「此方は紫式部殿。わらわは和泉式部じゃ。そして先の御坊が蝉丸導師」
「ゴボウがセミ?」
平安男女三人組は揃って、はあああと大きな溜息をついた。当の蝉丸だけが、にこにこと人良さげに笑っている。
「まあまあ、この令和の世ならば知らぬとて是非もなし。それよりほれ、紫殿。我らの策を教えてやれ」
蝉丸に促された紫式部は、気を取り直すようにその長い髪をばさりと跳ね上げた。
「聞けばその香澄とやら、相当の遣い手とか。どうせアンタじゃ太刀打ちできないから、アタシたちが全員で待機するわ」
「待機?」
在原業平が、ちっと舌打ちをした。
「鈍い!要は歌を詠んだ当人がそれぞれの札の上に立つのだ。自分の歌が詠まれたら手を挙げる故、そなたはその札を取ればよい。我らの姿は他に見えぬのでな」
「恋の道ならわらわに任せてくりゃれ。喜んで手を貸そうぞえ」
妖艶に微笑む和泉式部に、蝉丸が得たりと頷く。目の前で喧々諤々の作戦会議を繰り広げる在原業平と紫式部の姿を、紫苑は言葉もなく呆然と見つめるばかりだった。
いよいよ勝負の時が来た。
教室の床にずらりと字札が並べられた様は、嫌が上にも緊張を煽る。だがその札の上でいかにも平安調のいで立ちの男女がぴったり百人、今や遅しと開始を待ちわびる光景は何とも奇妙だった。
戸惑う紫苑の表情をちらりと見やった香澄が、ふふんと鼻を鳴らした。怖気づいているとでも思ったのだろう。無言で見返す紫苑との間にばちりと火花が散る。いざ勝負開始だ。
『今来むと~いひしばかりに長月の……』
「はいっ」
間髪入れぬ紫苑の先制に、香澄の顔がさっと蒼ざめた。
百人一首は最初の数文字でどの歌かを判別できるが、それには相応の知識と経験が必要だ。だからこそ香澄も強気の勝負をふっかけてきたのである。
だが今日は違う。その歌を詠んだ当人が合図を送り、紫苑が手を伸ばすや身を翻して札を取らせるのだから、その威力は絶大だ。
『花の色は……』
小野小町が艶然と微笑んで手を挙げ、脇によけた。
「はいっ」
あまりの早さにどよめきが湧き起こる。一方の香澄は、予想外の紫苑の強さに歯軋りしながら字札を睨みつけていた。
――これなら負けない。
俄然自信の出てきた紫苑は、膝元の紫式部と小指の先で小さくハイタッチを交わした。だが香澄にも元・競技かるた部員の意地がある。時に紫苑の手を躱して札を取り、反撃を重ねてきた。
他のメンバーは早々に離脱し、今や勝負は一対一だ。才色兼備の香澄と地味派代表たる紫苑の白熱した闘いに、いつしか他のグループも観客に加わり、教室中が熱狂の坩堝と化す。
『これやこの~行くも帰るも……』
電光石火、紫苑と香澄が同時に手を伸ばした。ばちんっ!
「痛あ……」
したたか手を叩かれた紫苑は顔をしかめたが、当の香澄は知らん顔だ。むっとしながら札から手を浮かせた紫苑は、思わず息を呑んだ。
今しがた歌を詠まれた蝉丸が、何故か字札の上でくったりとのびているではないか。
「せみ……!」
驚破こそとばかりに駆け寄った在原業平が蝉丸の細い体を抱え上げると、紫苑に向かって顎をしゃくった。構うな、続けよと。
だが次の瞬間、紫苑は顔を強張らせた。歌が詠まれても、誰も合図を寄こさないのだ。
「どうしやった。手を挙げてくりゃれ」
和泉式部が急かすように囁くが、目の前で蝉丸が蛙のように伸されたのを見て尻込みしたのか、みな目を逸らすばかりだ。
香澄の取札が一枚、また一枚と増えていくのを、紫苑は為す術もなく見つめるしかなかった。
「いや、面目ない。儂は盲目故、二人の手が迫り来るのが判らなんだのだ。それで躱し損ねて……」
帰り道、牛の背に乗せられた蝉丸はしきりに詫びた。
「私こそごめんね、思い切り叩き潰しちゃって。大丈夫?」
紫苑が謝ると、牛車の御簾から紫式部が顔を覗かせた。
「アンタのせいじゃないわ。それだけ勝負が白熱してたんだから」
「その後たれも手を挙げぬとは……約定を破り、負けを呼んだは此方の責任ぞ」
平安超モテ女・和泉式部の厳しい一言に、男性陣が一斉に俯く。
前半のリードこそ大きかったが、蝉丸が昏倒した後はほとんど札を取れず、終盤に逆転を許したまま勝敗は決した。劇的な結末に周りが湧く中、香澄は勝ち誇った顔を紫苑に近づけて囁いた。
「勝負あったわね。約束どおり、もう中里君と話さないで。一切ね」
紫苑は放心状態で頷いた。勝負の結果などどうでもいい。それより自分が傷つけてしまった蝉丸の容態が心配で仕方なかった。
幸い蝉丸の意識はじきに戻った。安堵した紫苑は、学校が終わると人には見えない牛車行列を後ろに連れ、気が抜けたようにぼんやりと帰路についた。
「一之瀬!」
赤信号で足を止めた紫苑が振り返ると、声の主は誰あろう中里哲哉だ。先刻の香澄の言葉が一瞬頭を掠める。だが誓約を知らない中里は、ひょいと気軽に紫苑の傍らに並んだ。
「一之瀬、強かったな。でも途中からどうしたんだよ。急に勢い無くなってさ。ほら、蝉丸の『これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関』って歌のあたりから」
紫苑が驚いて目を見開くと、中里は照れたように笑った。
「いや、俺は全然詳しくないよ。知ってるのはそれだけなんだ。『せみまる』って名前がインパクト強くてさ。一之瀬は得意だろ?。あの歌ってどういう意味?」
紫苑は答えに詰まった。歌もろくに覚えていないのに、意味など判るはずもない。
だがその時、紫苑の口から勝手に言葉が流れ出した。
「『これがあの逢坂の関 行く人帰る人が頻繁に 知った人も知らない人も行き交い別れて また巡り合う逢坂の関』……琵琶湖の南にある逢坂山に、京都から東や北に行く道の関所があったの」
「すげえ、一之瀬!俺てっきり大阪の関だと思ってた」
自分の言葉に驚いた紫苑が振り返ると、蝉丸が笑って親指を上げてみせた。続いて在原業平が中里の胸に向けて、ひょうと矢を放つ。
「――でも普段大人しい一之瀬があんなに強いなんて驚いたな。新鮮だったよ」
突如熱を帯びた中里の視線に、紫苑の頬が夕日よりも赤く染まった。
「さっすが、宮中イチの遊び人!やるじゃん」
「失礼な。恋の道の探究者と言え」
「それ、もうひと押しぞ」
笑みを浮かべて和泉式部がぱちりと扇を鳴らす。
「青だ。行こう、紫苑ちゃん」
ぽんと叩いた手を紫苑の肩に乗せたまま、中里が横断歩道を渡り始める。夢見心地で後ろを振り返った紫苑は、思わず足を止めた。
道の向こうで蝉丸が相好を崩して手を振っていた。その姿もだんだんと薄れていく。
「よいよい、構わず行け。いつの日かまた会おうぞ」
「あとは自分で頑張んなさい。自分の心には正直にね」
紫式部の微かに潤んだ声が、夕暮れの風に乗って紫苑の耳に届く。
満面の笑みで手を振る彼らの姿は、やがてかき消すように夕日の波に溶けていった。
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