【#創作大賞2024】蒼に溶ける 第3章 ② 迷い
「そういう父と兄のいる家が苦手で、私は早くに家を出ちゃったんです。でもそのせいで母は余計に孤独だったのかもしれません。父と違って、母はごく普通の穏やかな人だったから……でもその時は私も、自分が家から逃れることで精一杯で、母のことまできちんと考えてなかったんです」
「大学出たばっかりの子なんて、そんなものじゃないの? むしろ結依ちゃんは、その歳で自分の人生をしっかり考えてたようにも思えるけど」
そう言えばあの日も同じようなことを言われたな、と結依は母との最後の会話を思い出した。堪え切れずに目から一粒の涙がこぼれ落ちる。
「――実は生前、母は水火葬を望んでたんです。最後に母と話した時、偶然母から直接そう聞きました。でも父が強引に火葬にしてしまって」
半ば独りごとのように結依が呟くと、松下は驚いて目を見開いた。
「火葬!? それは今時珍しいね。そうか、本当にすごくいいとこのお家なんだ……って、ごめん。たぶん結依ちゃんは、あんまりそういうこと言われたくないんだね。その表情を見る限りでは」
結依は苦笑いをして首を振った。
「別に自慢して言ってるわけじゃないんです。ただ父は根っから自分が特別な人間だと思ってるような人で……火葬の権利があるっていうのも、父にとっては自分の優位性を誇示する要素でしかないように見えるんです。もっともその父も、もうすぐ定年なんですけど」
「うーん、直接結依ちゃんのお父さんを知ってるわけじゃないから、何とも言えないけどさ。でも悪いけど、ちょっと時代錯誤っぽい匂いは感じなくもないね。だって今の時代、もう明らかに水火葬の方がメジャーじゃない? 火葬がごく一部のセレブというか、上級国民の特権っていうのは確かだけど、庶民からすれば『え、まだソレにこだわってんですか?』みたいな。明治に入っても『自分は武士だから』って言って、いつまでも刀を腰に下げてるのと同じで」
結依は思わず声を上げて笑った。
まさにそのとおりだ。時代の流れが変わっていることに気づかず、これ見よがしに刀を見せびらかして歩く姿は、滑稽を通り越して、いささか物哀しくさえある。そしてそれがまさに父の姿なのだ。
「特権=人から羨ましがられる、と思い込んでるあたりがもう無理なんですよね。一国の王族や皇族ならいざ知らず、ウチ程度のレベルで立場がどうとか、もう勘違いにもほどがあるって感じで」
「でもそういう人は、その勘違いによって自分のアイデンティティを保ってるわけだから、まわりに何を言われても受け入れられないんだよ。だって受け入れたら、自分の存在意義が壊れちゃうもんね。ある意味、根が深いよ。お兄さんがいるって言ったけど、お兄さんもそういうタイプ?」
言われて結依は、はたと考え込んだ。
「兄は典型的な日和見の事なかれ主義っていうか……家の中では父や祖父の力が強かったんで、それを聞いてれば問題ないと思ってるみたいです。ただ父と同じで、ナチュラルに私のことを見下してる感じはするけど」
父とはタイプこそ違うが、自分と考え方が合わないという点では兄も似たようなものだった。
「でもお父さんは、お母さんの希望をご存じなかったの? 自分の奧さんが水火葬を望んでるっていうのをさ」
まさにそれが問題なのだ。結依は空になった紙コップの底をじっと見つめた。もうあれから一か月以上経つというのに、思い出すと今でもふつふつと怒りが湧いてくる。
「母はちゃんと言ってたけど、全然取り合ってもらえなかったみたいです。母と最後に話した時にそう聞きました」
「うわ、それはひどい」
「だから私も父にそのことで抗議したんですよ。でも父は話を微妙に自分の都合のいい方へ曲げちゃうんです。『聞いてはいたが、強い希望じゃなかった』みたいな。ほんと官僚くさい言い方って感じで、余計に腹が立っちゃって。しかもいつの間にか『私が父に逆らうために話を盛ってる』っていう路線に変わってるんですよ」
松下は苦笑して首を振った。
「そりゃ、まともに話したら自分が不利になっちゃうもの。だからお父さんとしては、何とか論点をずらしたいんだろうね。ただ厄介なのはさ、そういう人は得てして自覚がないんだよ。自分に有利な展開に持ち込むために、話をすり替えたり捻じ曲げたりしてるっていう自覚がね」
思い当たることがありすぎて、結依は音がするほど何度も頷いた。
「母は、ずっとそんな父に従ってきて……言うなら、祖父もそういう人でした。だから母も何て言うか、いつの間にかそういう考えに染まりかけてるところもあって。そういうのがすごく歯がゆくて、近くで見てるのが嫌になっちゃったんです」
「だから早くから家を出たんだ」
結依はかすかに濡れた目で頷いた。
「自分のためにはそれでよかったかもしれない。でも母にとっては……結局私は母の最期の希望すら叶えてあげられなくて……いくら父に逆らおうが、反論しようが、結局父の思いどおりに事が運ばれて……自分がただキャンキャン吠えてる負け犬みたいで……」
「ちょい待ち、ストップ」
松下は強引に話を遮った。
「悪いけど、それは結果論に過ぎない。仮に結依ちゃんが家にいても、お母さんがその気にならなきゃ事態は変わらないし、逆に言えば、その気になれば結依ちゃんが家にいなくても何かが動いたかもしれない。本来ならそれが見えてくるはずだったのに、不幸にもこんな事故が起きて……でもそれは結依ちゃんが責任を背負い込むことじゃないんだよ」
松下の言葉は、乾いた結依の心へ沁み込むようにじわりと響いた。母を亡くして以来、誰にも自分の心の叫びを受け止めてもらえなかったことに、今さらながら気がつく。血を分けた親とも兄とも、母を喪くした哀しみを分かち合えないことの辛さが、時の流れとともに波のように押し返してくる。
「――立ち入ったことを聞くけど、お母さんのお骨はどうされたの?」
唐突な松下の質問に、結依はひくっと息を呑みこんだ。
「え? ああ、それなら今は実家へ置いてあります。お坊さんからは『四十九日まではお手元に』って言われてるけど、たぶんいずれは……」
「四十九日! そう言えば私が若い頃はまだあったなあ、そういう風習。そうか、結依ちゃんの家は、まだちゃんとお寺さんと繋がってるんだ。そんなお家ももう少ないだろうね。そもそも今じゃお葬式だろうが結婚式だろうが、宗教色のないのが一般的だから」
そのくせ初詣はまだ普通にあるのがおかしいね、と松下は屈託なく笑った。
「そういう事情なら、じゃあいずれはお墓へ納骨するんだろうね」
結依は不満げに頷いた。
「そうなると思います。少し前に亡くなった祖父は、ちょうど先月納骨しましたし……ただ母のお骨は、父がしばらく手元へ置いておきたいみたいです」
「そこはやっぱりご夫婦だからね。まだまだお若い年齢で奧さん亡くしちゃったら、それはお父さんも寂しいだろうし」
そこは父にも情というものがあるらしい。さほど信心深いようにも見えない父が、自分の生活に伴って、母の骨壺をリビングやら書斎やら寝室やらへその都度移動させる姿を、結依は意外な思いで眺めたものだ。
「――でも母は、家のお墓には入りたくなかったみたいなんです」
「え、そうなの?」
何度となく頭の中で繰り返した母との最期の会話をもう一度思い出しながら、結依は自分の頭を中を整理するように言った。
「あんまりはっきりは言わなかったけど、水火葬にしたかったのは、一つにはすべて海に還るからお墓に入らなくていいって意味もあったみたいです。それを考えると、このまま母の遺骨をあの家に……父の元に置いといていいのかなって」
無言で結依の顔を見つめる松下の顔を、結依は正面から見返した。
「この前、その話をしたんです。父と兄と三人で」
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