朝ごはん ~ちくま800字文学賞 応募作品 ③
「あああ、スイッチ押すの忘れてた……!」
馨はまだ眠気の残る頭をシンクに突っ込むようにして呻いた。
昨日仕事でヘマをして落ち込んだ挙句、手抜きモード全開の夕飯を済ませるや、早々に寝落ちしたことを思い出す。その結果が今朝の炊飯器の沈黙、という訳だ。
今更炊き直す気力もなく、さりとて他に食べられる物もない。寝惚けた顔をおざなりに洗うと、馨は出かける億劫さを全身に纏って、まだ肌寒い空気の中をとぼとぼと歩いていった。
ようやくコンビニで当座の食料を確保した馨は、家まで帰るのも面倒だとばかりに、近くの川沿いの小さなベンチに腰掛けた。つんと形の整ったおにぎりのフィルムを剥がしてかぶりつくと、乾いた海苔がぱりっと気持ちのいい音を立てる。
道行く人の視線は気になるものの、空腹には勝てない。白いごはんに甘辛の鶏そぼろがたっぷり包まれたおにぎりを、馨は瞬く間に半分ほども食べ終えてしまった。
「美味しい……」
うっとりと緩む頬に触れる空気はまだ僅かに冷たいが、明るい日差しは少しずつ春が近づいていることを感じさせた。
そこへ腰の曲がった老婦人が杖を片手にゆっくりと歩いてきた。その老婦人もやはり通りすがりに馨の手元をちらりと見遣る。こんなところで行儀の悪い、と小言のひとつも落とすかと思いきや、老婦人は皺の深い顔をくしゃりと緩めた。
「いいねえ。今日は風もなくてあったかいから」
「え?あ、そう……ですね……」
「朝はちゃんと食べんとあかんでね。偉いね」
再びゆっくりと歩き出した老婦人を見送った馨は、手の中のおにぎりをじっと見つめた。ほんのり暖かな陽の光を吸い込んだように、真っ白なごはんの一粒一粒がきらきらと輝き、巻かれた海苔が微かに蒼く透きとおる。そっと口に運ぶと、まるで太陽からのエールがぎゅっと詰まったような味がした。
「偉いね、だって。ふふ」
思わず微笑む馨を見守るように、桜の花芽が仄かに色づいて膨らみ始めていた。