この箱を開けたら〈5680字〉 光文社文庫Yomeba!第20回『箱』応募作
「よう、兄さん。待ちなよ」
仕事帰りの雄司が疲れた体で振り返ると、薄汚れた身なりの老人が、既に日も暮れた道端で店を広げていた。怪しげな物売りかと素通りしかけると、後ろからしゃがれ声が追いかけてくる。
「そう邪険にしなさんな。あんたは今、ちょいと毎日が辛いんじゃねえのかい?」
思わずぎくりとして足が止まる。
「ほうら、図星だ。顔と歩き方見てりゃ、それぐらいのことは判るさ。そんな兄さんにはうってつけだよ。見るだけでも見ていきなよ」
見透かすような呼び込みに誘われて近づいてみると、台の上には小さな木箱がずらりと並んでいた。見るからに胡散臭い老人の見かけに反して、どれもきちんと手をかけて作られている。表面を焼いた分厚い板にニスを塗り、頑丈な金属の鋲や枠でがっちりと留めた箱は深い艶をたたえて、小さくともどっしりとした存在感を放っていた。
「すごいですね。民芸家具みたいだ」
「これはよう、ただの箱じゃねえんだ」
老人は声を潜めて、ぐっと身を乗り出した。
「この箱はそんじょそこらの奴には作れねえ。この中にはな、とんでもないものが入ってんだ」
「とんでもないもの?」
思わず箱に目をやる。確かにしっかりした造りではあるが、あとは何の変哲もない木の箱だ。
「外からじゃ判らないな。何が入ってるんです」
「虹だよ」
突拍子もない答えに、雄司は思わずぽかんと口を開けた。老人は歯の抜けた顔でにっと笑うと声を潜めた。
「兄さんだから言うがな。普通の奴にこの店は見えねえ。あんたはたまたま俺と波長が合ったから見えたんだ。後ろを見てみろ」
そんな馬鹿なと振り返ると、驚いたことに誰もこの店に目をくれようとはしない。立ち尽くす雄司を、ただ邪魔そうに睨んで通り過ぎていくだけだ。
「でも箱に虹が入ってるなんて……」
老人は困惑顔の雄司を手招きすると、更に声を潜めた。
「実はよう、俺ぁ虹あつめなんだ」
「虹あつめ?」
「そうよ。毎日空を眺めては、虹の出そうな場所を探して回る。そんでうまく虹に出会ったら、すかさずそいつを箱に閉じ込めるんだ。もちろん誰にでもできるこっちゃねえ。そいつができるのは、世界広しと言えどもせいぜい10人ぐらいだ。あんたはその貴重な一人を目にしてるってわけさ」
老人は自慢げに胸を張った。ずいぶんな大風呂敷に雄司は呆れ半分、興味半分で訊ねてみた。
「虹を集めてどうするんですか?」
老人は箱をかざすと、その陰からにやりと笑った。
「この箱を開けるとな、空にでかい虹を架けることができるんだ。そんで辛い時やパワーが欲しい時なんかに眺めるんだよ。遠い昔にゃ、こいつで虹を出して求婚したなんて気障な奴もいたぜ」
「虹は何度でも見られるんですか?」
老人は強く首を振った。
「そういうわけにはいかねえ。たったの一回きりだ。だからこそ価値があるんさ。ここぞという時に開けて、自分の道を進むエネルギーにする。虹にはそういう不思議な力がある」
雄司は台に並ぶ箱に目を凝らした。本当にこの中に虹が……?
すると老人は懐から小さな木箱を取り出し、雄司に目配せすると素早く蓋を開けた。
「うおっ!」
眩しい光が閃き、小さな虹がさっと目の前を覆う。だがそれも束の間、すぐに虹はすうっと消えてしまった。
「すごい、本当に虹が……!」
「今のはお試し用でな、虹といってもごく小さな欠片だ。本物はこんなもんじゃねえ。空いっぱいにでかい虹が架かる。どうだ、兄さん。これも何かの縁だ、ひとつ買ってかねえか。人生、豊かになるぜ」
――人生が豊かになる。
その一言が、妙に雄司の心を捉えた。自分の手許に虹があるなんて、確かにちょっといいかもしれない。数日前になけなしの賞与が出ていたのも何かの巡りあわせか、雄司はポケットからふらふらと財布を取り出した。
家に帰ってから考えるに、どうも騙された気がしないでもない。小さな木箱ひとつに六万円は、なかなか出せない値段だった。
だが箱の作りは確かに見事だ。継ぎ目は髪一本の隙間もなくぴったりと合わさり、蓋は頑丈な留め金で閉じられている。「せっかく集めた虹が洩れちゃ困るんでな」という老人の言葉も頷けた。
しかし買ったはいいが、いざ使うとなるとまた話は別だった。なにしろ一回こっきりに六万円だ。しかもそれで願いが叶うでもなく、ただ自分を鼓舞するためだけに。
結局、雄司はそれから長い間、その箱を手許に置き続けた。
何か良からぬことが起きるたびに、いっそ開けるかと思っては踏み留まるうちに、月日が流れるように過ぎていく。
二十代も終わりに近づいたある夏の日、職場の健康診断で再検査を食らった雄司は、渋々大きな病院へ足を運んだ。この辺で大きな病院と言えば、丘の上にある市立病院だ。車のない身では、駅から出る直通のバスに乗って行くしかない。
憂鬱な検査の挙句、一週間後に結果を聞きに来るよう言われた雄司は、やれやれと溜息をつきながら敷地内のバス停に戻ってきた。
既に男性が一人、ベンチに座っている。だがその男性は具合でも悪いのか、両手で頭を抱えて、近づく雄司にも気づかないほど深くうなだれていた。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけるべきかどうか迷ったが、そのまま見過ごすのも気が引ける。案の定、のろのろと顔を上げた男性の眼は赤く染まっていた。
「すみません、バス停でこんな有様を……」
「いや、その……」
男性は微かに声を震わせながら細々と言葉を繋いだ。
「娘が……まだ二歳なんですが、重い心臓病で……」
雄司は思わず息を呑んだ。
「生まれた時からずっと病院にいるようなものだったんですが……もう治療の手立てもなく、最後の望みで移植を待つしかないと……でも娘には、もはや手術に耐える体力が残されてない……」
事の重さに雄司が言葉を失っていると、男性はバス停のすぐ後ろにある病棟を見上げた。きっとそこに娘がいるのだろう。
「ここ最近、妻はずっと娘に付きっきりで……でも上の子を実家に預けてあるので、その子を放っておくわけにもいかず、ひとまず僕だけが帰ることにしたんです。でももしその間に、娘に何かあったら……」
再び顔を覆った男性にかける言葉も見つからず、雄司はバスが来るまで、ただじっと立ち尽くすしかなかった。
翌週、雄司は再び病院に赴いた。幸い検査結果はさほど深刻ではなく、二週間後に再び来るよう告げられた雄司は、安堵と面倒が半々の気分で外来病棟を後にした。
今日はバス停にあの男性の姿はない。どうやら柳の下のドジョウだったかと、雄司がベンチに座ろうとした時だった。
「あ、先週の……!」
先に声をかけたのは、近くの駐車場から姿を見せた男性の方だった。恐らく今日は車だったのだろう。
「この前は失礼しました。ひどく取り乱してしまって」
「いや、あの……お嬢さんのお加減は……」
恐る恐る訊ねたものの、果たして男性は寂しげな笑顔を浮かべて首を振った。
「幸い、何とか頑張ってくれてはいます。でもたまに目を開ける以外は、ほとんど眠ってるばかりで……せめて可能な限り傍にいてやろうと……もうそれしか僕らにはできないですから」
眠っているというのは祈るような親の心から出た言葉で、実際にはほぼ意識がない状態なのだろう。じゃあ、と会釈した男性が歩き出した時、とっさに雄司の手と口が動いた。
「これ、受け取って下さい!」
「え?」
唐突な雄司の大声に、男性は怪訝そうに振り返った。
「あの、お嬢さんに……もし目が覚めたら……」
「はあ……これは……?」
雄司の手には、むかし街で不思議な老人から買った、あの虹の箱が乗っていた。
――先週、病院から帰った雄司は、その箱を前にじっと考え込んでいた。
どうしてもあの男性に、この箱を渡したいという想いが雄司の頭から消えない。正確には彼の娘である二歳の女の子に。
「大枚はたいた上に長年取っておいたものを、会ったばかりの他人にあげるなんて……」
だが二歳と言えば、普通なら甘えたい盛りの年頃だ。なのに病院の一室で、ずっと管に繋がれて抱っこもままならない。しかもその先の未来に繋がる道が、今しも断たれようとしているのだ。それは独り身の雄司から見ても、あまりに哀れで不憫だった。
「――これは『虹の箱』です。これを開けると、一度だけ空に虹を架けることができるんです」
男性は半信半疑の表情で、雄司の顔と手の上の箱をかわるがわる見比べた。
「もちろん奇妙な話です。普通なら俺もこんな話、人にはしません。でも虹が見えるのはたぶん本当です。自分で開けたことがないから100%の保証はできないけど」
「なぜそれを私に?」
「ご両親だって辛いですよね。小さな娘さんがベッドから動けず、どこにも行けず……でも虹なら、病室の窓からでも見えるから」
「窓から……」
「虹って見ると何か元気出ませんか?これで奇跡が起きるとかじゃないけれど、少しでも娘さんに喜んでもらえたら……」
口の重い雄司にしては精一杯の想いの丈だった。
男性はじっと黙っていたが、やがて以前のようにゆっくりと病棟の方を振り返った。
「――ありがとう。お言葉に甘えて頂きます。きっと喜びます。娘も、そして妻も……」
男性は小さな木箱を両手でそっと受け取ると、足早に病棟へ向かっていった。
それから一か月後、今後は半年に一回の経過観察でよいとお墨付きをもらい、雄司はほっと胸を撫でおろした。通い始めた頃はまだ日差しが強烈だったが、今はもう高台を吹きぬける風が頬にひやりと冷たい。今日はささやかな祝杯でもと、雄司があれこれ夢想しながらバス停に向かっていた時だった。
「待って下さい!」
雄司は驚いて振り返った。遠くから走ってくるのは、やはりあの時の男性だった。その後ろから小柄な女性と小さな男の子が必死に後を追ってくる。
「ああ、よかった……あれからなかなかお顔を見なくて……」
男性は肩で大きく息をしながら、後ろに向かって急かすように手招きした。恐らく彼の妻と息子なのだろう。母親に手を引かれて懸命に駆けてくる男の子は、まだ五歳ぐらいだろうか。
「お引き留めしてすみません。もうこれが最後のチャンスかと思って……あの、妻と上の子です」
ようやく追いついた母親が深々と頭を下げる。
「夫から聞きました。娘のために大事なものを下さったそうで……本当にありがとうございました」
「いや、そんな……じゃあお嬢さんは虹を見られたんですね」
「――いえ、それは叶いませんでした」
男性の言葉に、雄司は思わず息を呑んだ。
「叶わなかった……?」
「はい。せっかく頂いたものの、目を開けても私たちの顔を見るのが精一杯で……そうするうちに容態が急変し、箱を頂いてから五日後に……遠い空へ旅立ちました」
母親の目から涙が溢れ出すのを、雄司は言葉もなく呆然と見つめた。男性の目も真っ赤だったが、それでも気丈に声を振り絞って、上着のポケットからあの箱を取り出した。
「娘には見せてやれませんでしたが、あなたから頂いたお気持ちには、本当に感謝しております。でもこれは元々あなたのものですから、何とかお返ししようと思って、今日こちらでお待ちしていたのです。これまでお会いしたのはいずれも金曜日のこの時間でしたので、もしやと思いまして」
そう言うと男性は受け取った時と同じように、両手でそっと箱を差し出した。雄司は箱を手にしたまま男性とその妻の顔を見つめた。女性が涙に濡れた目で小さく頷く。その手に繋がれた男の子だけが、ひとり俯くように立っていた。
「ぼく、名前は?」
男の子は驚いたように顔を上げた。
「――ゆうと」
雄大の雄に北斗七星の斗です、と男性が付け足す。
「雄斗くんか。偶然だね、俺も同じ字だよ。雄司ってんだけどね」
雄司が不器用に笑いかけると、男の子もはにかみながら笑みを返した。
「あのね、妹は咲ちゃん。お花が咲くの咲ちゃんていうんだよ」
「そうか、咲ちゃんか。可愛い名前だね」
「うん、でもね。咲ちゃん、お空に行っちゃった」
母親がしゃがみ込み、男の子をぎゅっと抱き締めた。その固く閉じた眼から、またもぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「ママ、咲ちゃんはお空にいるんだよね。いなくなったわけじゃないんだよね」
堪えきれないように、男性が大きく天を仰ぐ。雄司は小さく頷いて男の子の頭を撫でた。
「そうだな。雄斗くんの言うとおりだ」
腹を決めたように顔を上げた雄司は、空に向かって木箱の蓋をひと息に開けた。
「あっ!」
まばゆい光が箱を包んだ。次の瞬間、光の塊はしゅうっと音を立てて勢いよく空に昇っていく。天高く、光の球がまるで花火のようにぱっと開いた瞬間、七色に輝く大きな虹が青い空にくっきりと疾った。
「うわあ……!」
声にならない声が、それぞれの口から洩れる。まさかこれほどとは思わず、雄司は空の箱を握ったまま、呆然と見惚れていた。
「あなた、見て。後ろの窓……!」
振り返ると病棟の窓という窓に、人がびっしりと張りついていた。きっとここに入院している患者なのだろう。老人もいれば、小さな子供もいる。そればかりか白衣を纏った医師やナースまでが、顔いっぱいの笑顔で窓辺に立っていた。虹だ虹だと口々に言っているのが手に取るように判る。
だがしばらくすると、その見事な虹もやがて端の方からゆっくりと薄れ始めた。
「あ、消えちゃう……」
思わず母親が呟く。だがその時男の子が声を上げた。
「ママ、咲ちゃんだよ!咲ちゃんが今、あの虹を渡ってるんだ。きっとそうだよ。虹が咲ちゃんをお空へ運んでくれてるんだ!」
母親は嗚咽を堪えるように手を口にあてた。男性が息子を抱き上げると、そらっとばかりに肩へ乗せる。
「雄斗、手を振ってくれ。咲によく見えるように。パパたちはここだよって」
父親の言葉に、男の子は大きくその両手を振った。何度も何度も、時にその小さな体をふらつかせながら。いつしか母親も、そして窓辺の人たちまでが手を振っていた。消えていく虹の向こうにあの老人の愉快そうな笑い声が聞こえた気がして、雄司も大きくその手を振る。
人々の溢れる想いを静かに受け止めるように、七色の虹ははるか地平の彼方に向けて、ゆっくりとその帯を綴じていった。
(了)
【あとがき】
今回は残念ながら予選通過にあたる「優秀作」には入れませんでした。
それでも応募した2本のうち1本が「印象に残った作品」に選んでもらえたので、ちょっとほっとしています。
あらためて読むといろいろ直したいところは山のようにありますが、改行などの調整以外はあえて手を入れておりません。以下のリンクに編集部の方の講評が載っていますので、今後挑戦する方の参考にしていただければ幸いです。
また次回、頑張りますー!!!