“どんなものにも終わりは必ず訪れるということ”そして“終わりに対して『永久』で抗うAqours”
※はじめに
以下は2019年のAqours 5thライブのすぐ後に当時の自分が一度、
Aqoursの“終わり”
についてじっくり考えてフセッターに書き殴った文章です。
いま見返すと文章の流れも支離滅裂でとりとめもなくて、当然“今”の文章として読むと時系列的にはそぐわずナンセンスだったり、コロナ禍含めたこれまでの現実の流れとは合っていない部分も当然ありますが。。。
それでも、いまこそもう一度、当時の気持ちを思い返すことも兼ねて自分の気持ちを整理したいなと思い、基本文章はそのままに若干の加筆/校正と、今日2024/6/30夜時点でのシンプルな気持ちを追記として加えたものです。
ただでさえ長かったのに、最新追記のせいでさらに長い。
もはやすごく暇、かつ酔狂な方、
もしくは先日の発表でろくに仕事や家事・趣味に身が入らない人のちょっとした気晴らしや「そんな考え方もあるんだな」くらいの気持ちで見てもらう読み物として。
①前段
以下の文章は
Aqoursの“終わり”
についてのお話……というか考えたこと。
きっかけは5thライブそのものでも、その基盤となった映画のストーリーでもなくてとあるMCの言葉。
文字に起こしたら僅か数文にしかならないようなMCの言葉でした。
そして考えた結論としては、ものすごく当たり前すぎることなのですが、
“どんなものにも終わりは必ず訪れるということ”
“でもその中で永遠を望むことは間違っていないということ”
だけどほんとに大事なのは
“そのいつかくる「終わり」のときに自分がどうありたいかとちゃんと向き合っておくこと”
人によっては「なにをいまさら当たり前のことを……」と思われるかもしれないようなありきたりな結論。
でもそんな当たり前のようなことでもただ「知っている」のと「自分で考え辿っりついてみる」には大きな差があると思うんです。
だから、ちょっとしたきっかけで考え始めたことをいま敢えてちゃんと書きだそうと思って出来たのがこの文章。
同じ気持ちを持ってもる人がいても、同じ結論に至るとも限らないし、はたまたその逆もありえるかと思うけど。
ではここからが本文
②「終わり」について考え始めたきっかけ
Aqours 5thライブ
アニメ本編にて”9人のAqours“の物語の明確な区切りを示した映画ストーリーになぞらえた演出・セットリスト、
そして同時に過去のライブイベントと比べても“ひと際MCが少ない”ことも特徴的だったと感じたこのライブ。
だからこそなのか、そのday2のラストMCでキャストさんたちから語られた言葉には過去のライブと比べても少し毛色が違って印象的な言葉が多かったと思う。
※以下原文ままではなく意訳です
伊波さん
「私はラブライブが好きな気持から始まってここまできた。だけど……好きなものを好きでい続けることは簡単じゃない」
諏訪さん
「これだけの人がここに集まっていることは当たり前じゃない。みんなが次のライブでもこうしてきてくれるかは分からない」
逢田さん
「しばらく会えない日が続くかもしれない」
もちろん、他にもたくさん心に残る言葉はあったのだけれど特に5thライブのMCではこれらのフレーズが胸にチクリと残るように気にかかった。
それはいずれもが、
“Aqoursがステージに立ち続けて周りにたくさんのファンがいる”
という状況の
“当たり前じゃなさ”
を表しているようだったから。
もしこれがまだ1stや2ndライブの頃であれば、その心配の理由を別のところに感じたかもしれない。それは例えばAqoursというグループや作品が先代に続いてラブライブを背負うことへの不安、またはファンの(ときに過剰な)期待に対するプレッシャーから出てしまった言葉ではないか、などと。
でも今やAqoursメンバーの言動の中に、少なくとも自分はそうした“自信のなさ”のようなものは感じることはなかった。
数々の挑戦を果たし、先代の成し遂げた偉大なマイルストーンも乗り越え、フェスの舞台では最終日の大トリまで務めた彼女らのパフォーマンスには今やその努力に裏付けされた自信すら感じる。
だとすると5thのMCから感じる“未来への不確かさ”とはなんだったのか。
それは
”変わらないものなどない“
ということを強く彼女たちが感じていて、MCを通じて我々ファン側にも想起させるものだったからだと思った
ここで先に釘を刺しておきたいのが一つ。
まだまだ続くこの長文の先の展開について無用な誤解を招かぬためにも、
この文章の結論をちゃんと伝えるためにも前提としてはっきり言っておかなければいけないこと。
それは
“自分としてはその『Aqoursが終わってしまうことへの杞憂』みたいな葛藤は4thライブの時点で解決していた”
ということ。
かつて、それこそ4thライブ前には確かにAqoursの“終わり”や“Final”というものに対して必要以上の怯え?心配?のようなものを持っていた。
4thライブに挑むにあたってのあの不思議な緊張感と怖さ。
この辺は個人差もあるのだろうけど、やはりμ’sのFinalをリアルタイムで体感した経験からか、東京ドームというライブ会場はそれくらいの印象を自分の中に残していた。
でも結果としては、
かつてのFinalライブの地でライブ中に飛び出した船がミラチケやWBNWの歌に乗ってメインステージすら飛び出した光景を見たときに、既存の“アニメ再現”や“シンクロ”という言葉のイメージだけに囚われない挑戦的な試みの数々を目の当たりにして
Aqoursはまだまだ終わらない!
って。
そして
勝手に終わりを想像して悲観するのはやめよう!それで今の楽しい気持ちを取りこぼすのはやめよう!なんだよそれ!だれも嬉しくないじゃん!
って。
で、その後もつい最近まで自分は馬鹿正直に
Aqoursは終わらない!!永遠!!ずっと心の中にある!!変わらない!!
映画でもいっていた、ずっとここにいるよ!!
って。
あまり深く考えずにただそう思っていた。
さて
ここまでが長い前置き。この文章の本題はここから。
いまから話すのは、話したいのはその「終わる」「終わらない」の“考え方”について。
ある意味もっとシンプルな話。
彼女たちAqoursの具体的な未来どうこうの話じゃなくて自分の気持ちの話。
ここでもう一度5thライブday2のMCの話に戻りたいと思う。
先ほどには敢えて引用しなかったキャストの言葉
小宮さん
「6人のAqoursもかっこいいな。だけれどやっぱりAqoursは9人がいいな。
アイドルってのは永遠じゃないからこそみんなが追いかけたくなるもの。
だけれど、この9人のAqoursには永遠であって欲しいなと思ってしまいました」
あらためて文字に起こしてみても思う。たった僅か数十文字程度の短い発言内にも関わらず、理屈だけで考えるとなにも筋が通っていない矛盾ばかりの文章。
だけど だからこそ この言葉はシンプルに胸に響いた。
あぁ……そうだよな。
ちょっと自分の考えって短絡的すぎたもなぁ……
永遠なんてあるわけないんだよな。
Aqoursだっていつか 絶対に「終わる」、「区切りがくる」んだよな
って。
要はこれだけ。
長い前置きまで使ってこれだけ引っ張っておいてなんか申し訳ないです。
でも冒頭にも言った通り、あのMCを聞いたときに抱いた感情の正体?を自分に言い聞かせるという意味でもちゃんと言葉にしたくて書いています。
頭でわかっていても言葉にできないこと、つまりは実は全然自分の中で消化できていない考えってきっといっぱいあると思うから。
「(6人になっても)9人のAqoursはいつも心の中にいる」
映画のストーリーの結論の1つを端的に表せばこうなのかな、と思います。
その考え方はとても理解できるしわかる。実際にそうであるしそう考えたいと思う。
いつまでもそうありたいと思う。
そして何より、そうだったら素敵だなと思う。
そのためにはこちら側、つまりは捉えていく側の努力も必要だと思うけど。
でも今ここで、自分が考え直して言葉にしている「終わり」っていうのはそういった精神論めいた話じゃなくもっとシンプルなもの。
“形あるものはいつか終わる“
すごく当たり前のこと。“終わる”の部分は“変わる”とか“区切る”とか“消える”でもいいのかもしれない。
生物やモノは必ず経年劣化して最後は死ぬし壊れるのだから。
ただ一つ。この言葉に足りない…というか誤解しやすいと思ってしまうのは“形あるもの”という部分だと思う。
“形のないもの”であれば“終わり”はないのか?
そんなことはないと思う。
だって、それは気持ちとか音楽とか思想とかでも同じ。形がないものだって、なんの努力もなしではずっとそのときの同じままではいられないから。
それはそれそのものが変わってしまうからという訳じゃなくて、どっちかというと受け取る側の心持や環境が変わるせいなのだろうなと思う。
昔、ある音楽を聴いたり情景を見たときにあんなに受けた感動や衝撃も
その「感動した」っていう事実自体は覚えていても、その感覚自体は時間が経つにつれて少しずつ薄れていく。
同じものを同じように聞いているはずでも「あれ?」と思うくらいに受け取り方が変わってしまったりする。
違うものになっていってしまうことはある。
「そんなことない!気持ちは変わらない!変わるわけない!」って人ももちろんいるかもしれない。
でもごめんなさい。自分はそうじゃないです。これはアキ本人の気持ちや考え方の範疇での話なので、
自分の経験からなので共感してもらえるかは怪しいけど、この「感覚の薄れ」「感覚の変質」みたいなことを考えるたびに思い出すのは深夜ラジオのこと。
初めて深夜ラジオを聞いたのは忘れもしない中二のとき。なけなしの小遣いで買ったラジカセを両親がとっくに寝ついた後、窓の近くで必死に電波がいいところを探して右往左往して。
そして深夜1時に流れるANNのOPテーマBittersweet Samba。
あの曲を耳にした瞬間、それまでの短い人生で味わったことのない感覚を手に入れていた……っていう記録は鮮明に覚えてはいるのだけれど残念ながらその感覚を今の自分の中にはもう新鮮に再現することはできない。
それは食材や機器はなんでも全部そろっているはずなのにレシピが違うからかどうこねくりまわしても同じお料理ができないみたいな……
閑話休題
とにかくあらゆることに「終わり」はくる
こうゆう「終わり」の話になると
「Aqourはまだまだ続く!少なくとも~」とか
「今回のライブで告知がなかったからそこから推測するに早くても~」とか
「でも契約云々的には最悪でも~」とか
(※このあたりの文章は今となってはあまりにナンセンスですが、昔書いた文章ゆえに勘弁。。。)
とかく、その終わる“時期”に焦点が当てられがちな気がするけどなんかこう、小宮さんの言葉から自分が痛いほど感じたのはそういうことじゃなくてもっと単純な話で。言い方を変えるなら。
絶対に “いつか“ Aqoursも終わるんだよ
終わるって言葉が悪いのかもしれないなら
区切られるんだよ
ってこと
もちろんそれを過度に意識して悲観的になったり、その悲観を吹聴して今の楽しさを否定するべきってことじゃないけど、
“いつか終わりが来る”
ってことを過度に否定すること、気づかないふりでいるのはそれはそれで違うんじゃないか、
もしかしたらそのスタンスだと一番苦しい喪失感を伴ってその“終わり”を迎えることになってしまうんじゃないか、と。
その理由の一つとして、
ラブライブサンシャインもといAqoursの物語そのものが、
この“終わり”“区切り”といったフェーズを非常に重要なものとしている
という側面もあるのだと思う。
③ラブライブサンシャイン(=Aqours)の物語の特徴について
現実の“Aqours”としての活動=生身の人間、3次元のコンテンツとしてのAqoursはずっと永遠に続くことは難しいのだと思う。
※繰り返しますが実質的な活動の話。精神的な話ではなくて。
それは……きっと個々の将来とか夢とか、計画とか。
時間の流れによる環境変化とか。
それ以外にも現実には必ずしもポジティブではない、当人らではどうしようもないような予期せぬ事情もたくさんあるから。
一方でラブライブのような2.5次元コンテンツみたいに表現される作品の場合、キャラクターであるところのAqoursは少しずつ形を変えながら、永遠ではなくても現実の移り変わりに比べてそう思えるくらいはるかに長い期間活動ができる側面もあると思う。
ラブライブにおいては“限られた時間で輝くスクールアイドル”といったメインテーマや在り方はあるとしても、例えるならメディアミックスなどのお陰でアニメや映画の物語軸とはまた違った彼女らもいるわけで。
繰り返すがキャラクターのAqoursの9人は、現実のAqoursよりもずっとずっと長くAqoursとして僕らの前に存在して活動し続けることが可能な側面があるってこと
そのはず、だった。
そのキャラクターAqoursの活動にて、その物語のメイン軸と言っても差し支えないアニメのお話は映画で一区切りを迎えた
気持ちはずっと一緒だよ!という考え方はあれど、上級生の3人は明確な進路を胸に生まれ育った地を自ら離れて、9人だったAqoursは新しい6人でのAqoursという形に変わった。
区切りを迎えた。
0から1にした青春を経てまた別の0からやり直す……というある意味で至極当たり前の変化を真っ向から受け入れた。
5thライブの終わり方が、次への具体的な繋がりを単純に言葉で明示せずに終わったことは、
アニメの彼女たち同様に、ある“区切り”を明確にファンに見せるためじゃなかったのか、
と自分は思っている。
そして結果として現実のAqoursメンバーの活動は続く。
※2024年現在も続いてる!!
結果論だがこの文章を書いている今でもナンバリングシングルは続き、(仕切り直しにはなったが)新たなライブツアーも企画された。
それ以外にもユニット単位でのライブ、雑誌や地上波を含めた各種媒体への出演、頼りになる“現役“としてのフェスでの活躍etc…
つまりは何が言いたいか
いまこの瞬間だけかもしれないけど、永遠であろうとすれば出来るようなキャラクターらAqoursの物語が先に明確な区切りを迎えたのに対して、
現実のAqoursちゃんの方が変わらず(変化の幅が小さく)9人で活動を続けていくことになっているのだ。
少し話がずれるかもしれないけれど、μ’sの物語との大きな違いはこのあたりにあるんじゃないかなって思う。
μsic Forever
ほんとに何もなかった場所からあのドームの地まで辿り着いて、9人でμ’sをやりきってお終いにして、物語として完全な結末を迎えたアニメ映画とともに最後のその瞬間をリングに閉じ込めて永遠にすることを選んだ。
この辺りの解釈は人によって大きく変わりそうだとは思うが少なくともアニメのストーリーはそうだったのではないかと自分は思う。
現実のライブでもFinalライブday2のラスト、僕たちはひとつの光
歌い終わって最後の最後に誰にも見せることの無いステージ上での9人だけの円陣。いまでこそ結構、ステージ上でそういうキャスト同氏に向けあうようなパフォーマンスだったりはあるような気もするけど当時はあんなのなかったんですよ!
もちろんSDSなどを通して彼女らが伝えたかったものってのは脈々と伝わってる
自分も追いかけていたファンの一人として受け取らせてもらった1人とは思ってる
だけど
出会い方やタイミングの違いでもあるのだろうけど 僕にとって彼女らμ’sはキャラクター×キャストが完全に同時系列で伝説で永遠、光になった存在。今でもやっぱりそうゆう言葉が似合う存在なのだ
そのせいか、もしかしたらキャスト凹とも同じ場所に立つ人間とすら思っていなかった……っていうのがいいすぎだってのはフェスのときに初めて生のμ’sを見て気づいたんですがそれはちょっと別の話なので割愛。
それでも己を取り巻く環境や状況、心理状態も相まって、少なくともあの時の自分にとってμ’sの結末は“終わり”とかいう至極当たり前の概念すらも吹っ飛ばすような完膚無きまでの『完結』だったのは間違いなかった。
だからこそ、自分はあのFinalライブについてはあらゆる意味で肯定的。
あのライブ自体も、強大な光が9つの光になって別れて、それぞれが別々に歩みだすのに必要な区切りだった。シンプルな儀式だった。
良くも悪くも。凄く大切な区切りだった。
分かりやすく、あまりに完全な区切りだった。
まぁ、このあたりについてはより複雑な感情はあるのですが、一つ自身の感情に対して自信をもって言えることは、
自分はμ’sに対しては“終わる”ってことをそんなに難しく考えなくてよかった、考えてないでよかった対象だったんだろうなってこと。
でも自分にとってラブライブサンシャインは、Aqoursは違う。
偉大過ぎる先代を受け継ぐというあまりにも大きなバックグラウンドに対してまるで0に等しかったところから始まって、1歩1歩すすみながら、上手くいくこともいかないことも称賛も批判も山のようにあって、その末にやっと掴んだ彼女たちだけの成功と輝きもやっぱり永遠じゃなくて、それでもどうしたって続いていく未来に向かって
一度終わらせて 区切りをつけて
形を変えてまた0から始める
受け継いで
始めて
続けて
終わらせて
また始める
それはアニメの物語が一区切りした後ですらも、
キャストたち主導で懸命に新しい挑戦、可能性を目指しながら足搔くという形でも続けられたしその姿がかっこよかった。
破壊と再生?とまで大げさに表現する気はないけど。
その様子は、何を一つを成し遂げたところでそこで分かりやすく全ての“終わり”がくるわけではなく生々しく繰り返される「始まり」と「終わり」
「引き継ぎ」「人生」という継続の連続
自分にとってのラブライブサンシャインは単純なアニメのメイン物語軸自体に留まらず、プロジェクトそのもののテーマがそれだと思ってる。
なにかを終わらせるためにがんばる、
答えをみつけるために今をがんばる。
その後は?
続けるために、新たな始まりを迎えるために
“区切る”
それがリアルタイムの渦中では“終わり”って形で見える
それを描き切ったのがラブライブサンシャインの物語なのだと思う。
④再び小宮さんのMCへ
もともと小宮さんのMCからの話
少しだけ小宮さん自身の印象について語るけど、自分が小宮さんに抱いている第一の印象としては「特に“演じる”という行為に対してすごくプロ意識が高い人」ということ。
有名な話ですが、小宮さんは
「そっくりっていうか……私がダイヤだから」
っていうんですよね。
何万人の前でリアルタイムで。
「私が茶髪でパーマをかけてステージに上がったとしても黒澤ダイヤに見えるようにしてみせる」
ともいうんです。
そんな彼女にとって
黒澤ダイヤ始め上級生の3人が9人のAqoursから飛び立ち、イコールでAqoursが6人に形を変える様を演じた5thライブ。
徹底的にそれを描かこうとしたステージ演出や楽曲。
ダイヤたちが明確な区切りを迎えたのに対して自分たち現実のAqoursは変わらず9人で活動を続けていく状況。
“永遠であろうとすれば出来るようなダイヤたちAqoursの方が先に明確な区切りを迎えたのに対し、自分たちAqoursの方が変わらず(変化の幅が小さく)9人で活動を続けていくこと“
「6人のAqoursもかっこいいな。だけれどやっぱりAqoursは9人がいいな。
アイドルってのは永遠じゃないからこそみんなが追いかけたくなるもの。
だけれど、この9人のAqoursには永遠であって欲しいなって」
二つの存在がそれぞれに迎える、永遠と“終わり”、“区切り”そして“継続”
二つのそのズレが生じた物語の中に言葉通り生身で放り込まれた彼女。
ラブライブのキャストとして二つのAqoursの活動に本気で向き合ってきた人から出てきた言葉にはどれほどの気持ちが含まれていたのか
正直分からない いまの自分には想像できる気がしない
小宮さんへの第二の印象。(他メンバーと比べて)人一倍現実的な思考をするところ。
たまにちょっと独特のタイミングでハッシュタグの話やお金や食べ物の話をして不思議な感じを出す小宮さん…
あれって小宮さんの思考がすごく現実的な生活や数字とかに根差した純粋なところベースとしているからなんだと自分は思っています。浮世離れた見た目とのギャップがまた魅力的なわけですが……
「6人のAqoursもかっこいいな。だけれどやっぱりAqoursは9人がいいな。
アイドルってのは永遠じゃないからこそみんなが追いかけたくなるもの。
だけれど、この9人のアクアには永遠であって欲しいなって」
そんなプロ意識が高くそして現実的思考の彼女から漏れ出たMCの言葉は
いってしまえば少し幼稚ともいえるほどにシンプルで純粋な願い
(余談ですが上のセリフを発しながら涙をこらえるように言葉を詰まらせた際、そのまま話し続けることも当然できた中で有紗ちゃんは大声でMCを締めることを選びました。それだけが決して正解というわけではないのだろうけど「ステージでは涙をみせない」という自分の中の美学を貫いた強さ…そこにもプロ意識の強さは感じました)
でもシンプルだからこそあらためて思わされた
彼女は いまこのとき いつかくる“終わり”を
ダイヤとの“別れ”ではなく Aqoursとしての一つの物語の“終わり”を
その身で一足早く体験してしまっているんだ、って。
それをその言葉から感じ取ってしまった気がした。
だから思った
終わりは ある いつか必ず くる
30年以上生きてきてそんなこと当然知っていたはずだけど。
なんか都合よく忘れていたかもしれないとあらためて思った。
⑤終わりを、区切りを受け入れること
自分は昔から、色んな創作物の影響からか過度に「終わり」とか「死」とかそうゆうフェーズを重視したり、そこに過度な美学みたいなものを見出そうとする傾向がある。
でもある程度年齢を重ねて、それなりには社会の一員として働いたりして
その上で感じている考え方としてやっぱり
「区切り」は大切
だと思う。
終わらないと区切らないと ちゃんと次が始まらないから。
僕にとって人間っというのじゃすごくややこしいものだしそれで仕方ないものだと思っていて。
それは自分の心すらも完全に制御出来ない生き物だから。
昨日言ったことと違うことを平気で明日言ったりするし、理想を語ったそばからそれに反した行動をとったりするし。
とにかく複雑で、面倒くさがりで、色んな誘惑にすぐ負けたりする。
そしてそんな自身が理想と矛盾しているのにすら気づけなかったり気づかないふりを出来たりする都合のよさも。
だからこそ
なんとなく始めてなんとなく終わったのかどうかもわからないようなものを残して次の新しいことに手を着けてそれに本気で取り組めるほど01で柔軟に切替えることなんてとてもできないと思う。
だから“区切り”はいる。
じゃないとわからないし納得もできない。頭で理解しても心がついていけない。
そんな状態で身体も本気で動かせるわけがない。
それはきっと健全な動きじゃない。自分のためにも 周りのためにも。
ときに、世の中には本人も周りも納得のいかない“終わり”や“区切り”を迎えてしまうケースだってたくさんある。
不慮の事故、偉い人の都合、お金の問題、怪我、病気、社会情勢……
かくいう我々応援する側だって勝手なモノで、目新しくて楽しそうなモノがあったらすぐにそっちにいっちゃうかもしれない。
そうゆう意味でも諏訪さんがいったように、今と同じ次があるなんて当り前じゃない。
この状況がまた次のライブでもおなじだなんて言いきれない。永遠なんてない。
言葉にしたくもないけど、Aqoursの9人だって、関係するスタッフ側の人だってこの先なにかが上手くいかなくてみんなが揃って納得いく区切りを迎えられない可能性だってある。
それでもここまで色んなコトをやり遂げて残してファンに届けてくれた彼女たちが、どんな形であっても彼女たちの物語の“区切り”を自分たちの意志で迎えるときはそれを受け止めたい
悲しい!とか、やだやだ!とかばっかりじゃなくて
どういう区切りを彼女たちが決断して、
迎えて、
そして何を始めようとしてるのか
それをきちんと受け取りたい。
だってその“区切り”は
それこそ映画で千歌ちゃんらが言ったように次の始まりだから。
そう思ったとき、
「終わらない!ずっと終わらない!永遠だもん」
ではなく
「終わるのは寂しいな…いやだな…ずっと見ていたいな…」
でもなく
彼女らが Aqoursがいつか本当に大きな区切りをつけるその瞬間に、
「6人のAqoursもかっこいいな。だけれどやっぱりAqoursは9人がいいな。
アイドルってのは永遠じゃないからこそみんなが追いかけたくなるもの。
だけれど、この9人のアクアには永遠であって欲しいなって」
5thでこう言い残した小宮さんが、
そして他の8人が
どんな表情で何を言ってくれるのかを見届けたい、って気持ちになった。
そしてその想いに少しでも共有できるように、それまでの活動をしっかりと見ていたいとも思った。
そしてそのときにはAqoursちゃんたち本人にとってだけじゃなく、その1ファンとしての自分自身の人生にとっても
その“区切り”がどういう意味をもつのかをちゃんと言葉に出来るようにしたいな、
と思った。
彼女たちを応援していたことやその行為自体がただのそれだけで終わってしまうものにならずに、ちゃんと自分のその後に続くものとして残るようにしたい、って。
次の始まりを健全に迎えられるように、ちゃんと自分の中にも自信をもって言えるような“区切り”をつけられるようにしたいな、って。
“どんなものにも終わりは必ず訪れるということ”
“その中で永遠を望むことは間違っていないということ”
だけどほんとに大事なのは
“そのいつかくる「終わり」のときに自分がどうでありたいかにちゃんと向き合っておくこと”
“生き方とは死に方だ”…というのはフレーズだけ聞くと大げさに思えるかもだけれどあらためて大好きになった言葉。
“何をどう終わらせるか、区切るか”
それを忘れず、否定せずに意識することは決して悲観的な生き方じゃなくて、むしろ前向きな生き方ですごくポジティブな“推し方”なんじゃないかな、と思った。
これが5thライブを通して 僕が感じたことの全部。
※追記という蛇足:
……なんて5thライブのあとに考えたことをあらためて文字に起こしたわけですがもうちょっとだけ、こちらはただただシンプルに小宮有紗さんのお話で追記。
フェス直後の、あんちゃん・逢田さん・有紗ちゃん3人でのニコ生。
ステージ上でも滅多に涙をみせることのないと言われる有紗ちゃんがまさかのニコ生で涙を流してしまったときの話題が
「いまさらだけど、千歌ちゃんたちってほんとにいるんだな」
っていうものだったこと。
オタクの勘繰り過ぎ上等での解釈だけれど、もしかしたら有紗ちゃんの中では映画の物語の終わり=5thライブを通過して、Aqoursとしての活動も表向きにはだいぶ減ってしまって、ダイヤちゃんと自身の境遇のギャップが生まれちゃっていたんじゃないか、って。少し寂しかったりしたんじゃないかって。
ここまですらも全部自分の勝手な妄想だけど、もしそうだったとしたらだけど、
フェスという舞台で、
「きっとダイヤはこのフェスをすごく楽しみにしていただろうから」
と、わざわざ黒髪にしてまで挑んだフェスの舞台で、
有紗ちゃんがまたもう一度ダイヤに心から寄り添えてしっかり歌って踊れたんだったらほんとに良かったな、って思う。そりゃ涙くらい出るよ。
※最新時点(2024/6/30)での追記
ひさしぶりに過去の自分の感情のかけらのような文章を読み返して、
「こんなことをちゃんと書き残していたんだな、自分……」
という気持ち半分、
「いざそのときになったらなかなかそんなに立派な風に感情をコントロールはできなかったよ……」
の気持ち半分。
でもかつてこの文章を書いてからおよそ5年が経った今読み返してみても、その間のAqoursちゃんの言動やそれを見て感じてきた自分の感情を考えても、
いまこのときでも十分通用するし、納得できる考え方だな、と。
(自分が自分を納得させるために書いたものなのだから当たり前かもだけど)
9人の彼女たちはしっかりと僕らの前に出て“区切る”ことを宣言してくれたし、
我々ファンがそれを聞いてから最後のその時までしっかりと色んなことを考えられるだけの時間も確保してくれた。
解散するわけでもないしいなくなるわけでもない
アニメの千歌ちゃんらと同じように「なくならないよ」とはっきり言ってくれた
そして寂しいはずの明確な“区切り”を宣言してなお、
「笑顔で!」と赤く潤んだ目を隠すように明るくあろうとしてくれた。
5年前の小宮さんのあのMC
「6人のAqoursもかっこいいな。だけれどやっぱりAqoursは9人がいいな。
アイドルってのは永遠じゃないからこそみんなが追いかけたくなるもの。
だけれど、この9人のアクアには永遠であって欲しいなって」
をきっかけに感じた
“そのいつかくる「終わり」のときに自分がどうでありたいかにちゃんと向き合っておくこと”
という決意
それに対して彼女たち9人、そしてたくさんのプロジェクトスタッフらが出してくれた答えが
“永久”
なのだとしたら、あまりにもカッコいいと思った。
終わり に対して 永久 で立ち向かう。
その無茶苦茶で挑戦的な姿勢はまさにAqoursのカッコよさそのものだと思うから。
そしてその挑戦はもはやAqoursにとってはきっとただの無謀じゃない。
常に挑戦者として9年を全力で走り抜け、
「沼津」というリアルな土地に数多の存在痕跡を強く刻み続けてきたAqours
2次元アイドルをベースにしながらリアルな世界と社会へも異例の存在感を刻んできた彼女たちなら、
もしかしたらほんとに“永久”を成し遂げてくれるかもしれない、なんて。
だから、
“区切り”を迎えることを決断したいまの彼女たちにだって
やっぱりいつもの、太陽のように前向きな言葉が似合うのだと思う
「未来を どうしようかな?」
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